答える相手が大人なら、冗長にああだこうだと言いながら、雲に巻かれたような説明で終わってしまうような気がする。
つまり、説明する方もよくわかっていないわけだ。
大人同士なら、それでも済んでしまうだろうが、説明の相手が子どもだったらどうだろう?
五歳の子どもに「教育って何?」と聞かれたら、どう答えたるべきか?
私は子どもに説明するには、相当わかっていないと説明できないと思う。
だから、小学生に算数を教えるには、小学生程度の算数の問題ができるではだめなのである。
個々の練習問題を解くことは教えられても、本質を教えることはできない。
実は学校ではこの本質を教えることに時間をかけている。
ここがわかっていない教師は、ただ練習問題を解くことで目標が達成できる(できている)と勘違いする。
例えば、円の面積では積分の概念が入っている。
しかし、問題を解くにためには「半径×半径×3.14」さえ覚えて計算を間違えないようにすればよい。
テクニックを教えることは、本質を教えることとは違う。
だから、中学、高校、大学と進むに連れ、以前の指導で本質を理解できたかどうかで、学力には大きな違いが出てくると思うのである。
ところで、始めに戻って「教育」とは何だろう。
答えは動物が教えてくれる。
動物は子孫が続いていくように、子育てをする。
それは、子どもがひとりで生きていけるように育てているわけである。
動物の子育ての様子を観察すると、始めは親が餌を与えているが、次に餌の取り方を教える。やがて、子どもは自身が親元から離れるか、親の方が子どもから離れる。
親子が離れるのは、子どもが自立して生活できる時期である。
このぐらいのことは、説明されなくてもわかりきっているという人がいるかも知れない。
そんなにくどくど言わなくても、教育とは子どもが自立できるようにしてやることですと。
しかし、これで本当に答えが出たのであろうか?
五歳の子どもにこれでわかるだろうか?
いや、五歳の子どもでなくても、新米お母さんにこれでわかるだろうか?
動物は子どもが自立するまでに、餌をやったり、餌の取り方を教えるだけではない。
そういう活動の中で、天敵に襲われたり、数々の障害を乗り越えて身を守る術を教えていくのである。
生きていくということは、障害を乗り越えていくということである。
障害を乗り越えるということは、問題を解決していくということである。
生きることは問題解決の連続であると言える。
つまり、人間が学校を作り、子どもを自立させようと考えたとき、それは子どもが目の前の問題解決の練習をすることにより、生きる力と自信をつけるようにすることだったはずである。
だから、何でもかんでも子ども自身の問題を親がやってしまうのは、子どもの問題解決能力を弱めていることになる。
優れた教師が、子どものためにやっていることに文句をつける親はこのことがわかっていない親が多いと思われる。
「ウチの子をなぜ叱るんだ」と抗議する親は典型的な例である。
今日の学校の問題は、子ども自身に問題解決の場を与えない。生徒会や学級会の弱体化がある。
教科指導も、本来、受験のためにあるのではなく、様々な要素を盛り込んだ教育課程を実施することにより、問題解決の体験をするということに意味があるのだ。
数学は社会生活ができる程度の計算力があればよいとか、外人と話をするわけじゃないから英語なんか必要ないというのは、教育の本質がわかっていないと言える。
子どもにとって、朝、目が醒めてから布団から出て顔を洗い、食事をし、忘れ物がないか確認し登校する。帰宅して寝床に入るまでが問題解決の連続である。
親は問題解決をすることが生きることだということを意識して子育てをすべきである。

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