2011年03月17日

なぜ日本の教育は変わらないのですか?

41THCD12B8L._SL500_AA300_.jpg今回の記事タイトルは、グレゴリークラーク著のなぜ日本の教育は変わらないのですか?そのものである。

この本をよんでみると、なるほどそうだと納得できる。

大学入試不正問題に関わる意見の中で、不正を厳しく糾弾することを批判を批判する者があることには驚いた。

人が大勢暮らす中で、もっとも大切なものは公平、平等である。
どんな競争であるにしても、公平性が担保されなかったら、それは競争自体に意味がなくなる。

さらに驚くのは、現在の入試制度に問題があるからと言って、これを不正行為と結びつけている者がいることだ。
入試制度に問題があるからと言って、不正が許されるとでも言いたいのだろうか?

だいたい、制度というものに完璧なものはないだろう。
制度の問題をついて、不正が許されるというなら、あらゆる競争において不正が許されることになってしまう。

こういう論理が通るなら、きまりの欠陥を通じて、きまりを無視していいという論理にも発展しかねない。

hitsuyounouryoku.jpgところで、入試制度の問題とは何のことを言っているのだろう?
そこのところを注意してみると、入試では人の能力をすべては測れないというものであった。

これには驚いたというより、呆れた。
入試に限らず、人の能力がすべて測れるという手段があるのだろうか?

これは、穿って考えれば、自分が試験に落ちたのは、自分が悪いのではなく、試験が悪いのだ。試験がオレの持っている能力を測れないのだ。だから、試験が悪い。
とでも言いたそうにも思える。
こう考えるとすれば、全く勘違いである。

そもそも、大学は入学試験で、人の能力のすべてを測ろうとはしていない。
また、そんな必要もない。

そもそも、人の持つ能力のすべてとは何だ?

例えば、弁当が早く食べられるというのだって、能力の一つである。
万引きがうまいというのだって能力である。

そういう能力を誰が必要とするのか?

大学はそれぞれ、ウチの大学では、これこれこういう能力を持った学生を必要とするという運営方針に合わせて、入試の問題を考えるのだ。

例えば、音楽大学では筆記試験に加えて、楽器の演奏能力をテストする。
美術大学ではデッサンの能力もテストするようなものだ。

人の持つ全能力のうち、必要とする能力に合わせて選抜試験を行うのだ。
つまり、組織によって必要とする能力は違う場合は、大いにある。
(「必要とされる能力は様々である」の図を参照)

日本の大学入試の問題は、もっと別なところにある。
それは、大きく分けて次の2つである。

1.大学がレジャーランド化していること

2.入学したものの、適正に欠ける者が毎年問題となる

gohkaku_line.jpg1.は入試さえ突破すれば、遊んでいても卒業できると言われる大学があること。
これは、入試はもっと基本的な基礎学力に絞って選別し、入学後、それ相応な力をつけなければ、卒業できないようにすることで解決できる。
つまり、入りにくく卒業しやすいから、入りやすく卒業しにくいにすることである。

2.は、たまたま入試は突破したのだが、どうも大学の教育に合わない。ついてこれないという問題である。
グレゴリークラーク氏はこの解決方法として、合格者を定員いっぱいできちんと切ってしまうのではなく、ある幅を持って合格させ、1年後に大学に留まるか、去るかを決める方法をとったらどうかと提案している。

氏の著書を読んでみて、私もなるほどと思った。
では、そういう改革ができないのだろう?
それが、文部科学省の官僚の抵抗なのである。

何の問題もない改革だと思うのに、なぜ抵抗するのか、私も今ひとつそういう官僚が抵抗する心理がわからない。

もう一つ、言っておきたいことがある。
ブログを書くにしろ。言葉で意見を発表するにしろ。

的外れや頓珍漢な意見にならぬよう、キーとなる用語ぐらい、正しい意味を確認しろというものである。
用語が正しくなければ、正しいコミュニケーションはとれない。
基本中の基本である。
自分で勝手に考えた意味に変えてはいけない。

今回大切な用語は「学力」である。
国語辞典で調べて使っているか?

**************************************************************
がく‐りょく【学力】
学習して得た知識と能力。特に、学校教育を通して身につけた能力。
**************************************************************

学力は、人が生きて行くために大切な能力である。
もしかしたら、受験教育のことと間違えていないか?

動物であれば、親が子離れする前に、子にエサの採り方などを教えて、子どもはその能力を身につけて独り立ちするようなものだ。

学力を身につけることに反対する者は、いつまでも親のスネカジリでいたいのだろうか?

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posted by edlwiss at 11:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
「[学力]学校などにおける系統的な教育を通じて獲得した能力。教科内容を正しく理解し、それを知識として身につけ、その知識を応用して新しいものを創造する力。」

 何方かのコメントに関して、最近、貴方より上記のコメントバックがありました。その短い文章だけで、私はなるほどと感服していた次第です。それが本日、更に引用の書物を加え、解説いただきました。もちろん言葉だけですので、私に誤解があるかも知れませんが、誤解があっても私は関係ありません。私なりに私の言葉で良く理解でき、また力をもらえました。私の言葉で、私は続けられる限り、生徒さんや若い先生に語りかける所存です。本当にありがとうございました。

 若いときの私もでしたが、情報科学分野の研究者にとって、人間が研究対象でした。人はどの様に言葉や外界を認識するのか非常にむつかしいテーマでした。今でもむつかしいです。ロボットや人工知能の研究のために、認知科学や言語学の常識は必須でした。売れる情報玩具の開発のために、ロボットや人工知能の常識は必須でした。幾ら行っても知識の階層にきりがありませんでした。一言で言うなら簡単です。メタ知識は知識獲得のために必須です。メタ知識の獲得のためにメタメタ知識が必要と言えました。今でもそうです。創造性が必須だと言えば済んでしまいますが、これでは科学や工学ではなく、宗教になってしまいます。

 哲学は学問を学ぶための学問だと私は認識しています。貴方の文章には哲学を理解した人の言葉を感じています。これからも世のため人のためなる、貴方の考え方をたくさんの文章に表していただけることを念じています。繰り返しになりますが、ありがとうございました。
Posted by tsuguo-kodera at 2011年03月18日 05:19
「自分が悪いのではなく、採用しない会社がオレの能力がわかっていない」とか、仕事についても、自分の個性に合っていないなど、とかく自分を基準にして世の中を考える風潮が多くなったと感じます。

もうじき、プロ野球も開幕しますが、毎年、戦力外通告される選手もいます。
でも、オレを戦力外通告した球団が悪いのだなんて言葉を聞いたことはありません。みな、自分に対して謙虚な気がします。

自分を客観的に見ることは難しいですが、客観的に見る努力はすべきだと思います。
自分のセールスポイントは何か、を考えてみることも大切だと思います。

学力をつけないで、いったい何をしようと言うのか、何を考えているのか、私には意味不明な人がいます。
Posted by dolce at 2011年03月19日 08:30
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