2011年03月20日

指導の本質〜人を見て法を説け

人を見て法を説けという言葉があるが、人間は機械とは違って、その人と実際に対面しなければわからないところがたくさんある。
また、それが人間が人間たる所以でもあると思う。

私はゴルフが好きなのだが、以前は先入観として、ゴルフはお金持ちのやるものだと思っていたので、自分とは縁のないものと思っていた。

ところが、ある時からどうしても始めなければならない事情ができて、これは大変と勉強することにした。

書店に行くと、ゴルフの解説書はたくさんある。
それらの本のほとんどというものを買い込んで、すべてを読みつくした。
そして、幸いなことに、近くに打ちっぱなしがあったので、毎日のように通った。

それも昔のことだが、まず驚いたのが非常にうるさいことであった。
今は、かなり閑散としていてそんなことはないが、昔はただにぎわっているというだけではなく、人の話し声がうるさかった。

年の頃、大学生ぐらいの若者がたくさんいて、打ち方についてあれこれ指南をしているのだ。
つまり、アマチュアコーチが非常に多いのだ。

ちょっと耳をすまして聞いていると、とてもゴルフをよく知っているという感じでコーチをしているのである。
初心者の私としたら、それらアマチュアコーチは相当上手いんだなと思った。

ところが、そのアマチュアコーチが打つとなると、とても下手なのである。
要するに知識ばかり詰め込んで、実践が伴わないわけである。

すごく立派なことを言っているのに、いざ自分がやってみるとさっぱりという姿を見て、彼らのコーチにうんざりした。

二階席に行ってみると、端の方に離れて、誰かが打ち方を教えてもらっている様子を見た。
それはプロのコーチに教わっている姿だった。
プロのコーチは静かな語り口だった。

私はゴルフ歴も腕もベテランの域にある人に聞いてみた。

「ゴルフのマニュアルもたくさんあるし、ビデオ教材もあるのに、わざわざプロにコーチしてもらう意味はあるんですか?」

すると、ベテラン氏の答えはこうであった。

「アマチュアコーチとプロコーチの違いは、その人に合った指導ができるかどうかだ」

なるほど。アマチュアコーチは知識として、情報はたくさん持っているのかも知れないが、それは固定化した知識や指導法でしかない。
だから、大枠としては役に立つかも知れないが、個々の人にあたった場合、具体的な指導にあたって当てはまるかどうかという問題がある。

Koyunosidouhou.jpg


人一人の命は地球より重い

という言葉がある。
それは、一人一人はかけがえのない命であり、みな違うということを表しているものだと思う。

クラブはこう持つべきでるとか、スウィングはこうあるべきだという基本的な指導法はあるが、身体も性格もみな違う個人に対してはそれぞれに合った指導を行うべきであるし、それができるのがプロコーチだと思う。

そういう観点から有名人を見ると、イチローの振り子打法は彼独特のものであるし、ホームランの世界記録を作った王貞治氏の一本足打法も彼独特のものであり、コーチの指導があってつくられたものだと思う。

中には一般的な指導法と、個人に合った指導法の意味がわからず、混乱している人もいる。
私が楽器の奏法について「これこれ云々でなければいけない」という説明をしていたら、横槍を入れてきた女性がいた。
彼女が言うには

「ギターリストの村治佳織さんは、父親に教わるとき『お前の奏法はそのままで言われた』ということです。だから、あなたの言うようにしなければというのは間違いではないですか?」

と言う強い口調であった。
なぜ、しばしば、興奮して言うのだろうかと思うのだが、質問者の勘違いは、楽器の奏法はその人その人で、自分がやりたい方法でやればいいと、一般化してしまっていることなのだ。

最近は、しばしばこういう自分勝手解釈が目につく時もある。
村治佳織さんの場合は、たまたまあえて直すところがなかったから、父親はそのままでいいと言ったのであり、誰もが自分の好きなやり方でいいと言ったわけではない。

一般的な指導と固有の指導がよくわかる例として、指揮者とオーケストラの関係がある。
sinsekai.jpgレコードやCDには名盤(名演奏)というものがあって、比較的ポピュラーなクラシックで例を挙げてみると、イストヴァン・ケルテス指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調作品95『新世界より』という、クラシックファンにはなじみの盤がある。

ウィーン・フィルは世界最高のオーケストラの一つで、代々、世界的な名だたる指揮者が務めたが、この「新世界より」を録音するのに、何人もの指揮者が代わったという。
そして、最後に落ちついたのがケルテスで、ウィーン・フィルのやる気満々の演奏でファンを魅了した。

世界屈指のオーケストラで、指揮者も世界的なら、問題ないだろうと思われがちだが、そこが人間の難しいところである。
現実に、指揮者が来て、オーケストラのメンバーと対面し、指導が成立するかしないかである。

機械は、設計に問題がなければ、その通り作ればきちんと作動する。
そういう意味では、相手が機械なら計算が立つわけだが、いくら考えていっても計算が立たないのが人間である。

これは、人間対人間が対面するところでは必ず起こることであり、たとえ指導者が何の問題もない言葉や、良いとされる発言をしたところでうまく行くとは限らない。

斎藤喜博氏の著書の中では「教師は実践者でなければならない」という言葉がよく出てくる。
それは、実践して肌で感じ取る経験を積まなければ、指導者は上達しないし、実践者は、あれこれ前もって空想していったことが無力であったという経験も持っているということだと思う。

だから、どうしてもその場で直感的にインスピレーションを働かせ、臨機応変な指導展開ができなければ、意味のない時間の経過に終わってしまうものなのだと思う。

つまり、指導者が指導のプロと言えるのは、実践現場で如何に直感力を働かせ適切な対処ができるかにかかっていると思うのである。

教師というのは、指揮者と似ているところがあり、それは「どうしたら教師になれますか」という問に対し「どうしたら指揮者になれますか」に答えるのと似ている。

指揮者になるには、何の資格も必要ない。
なりたかったら「オレは指揮者だ」と叫べばなれる。
ただし、どこかから要請があるかどうかはわからない。

学校の先生になるには、教員の資格をとり、採用試験に合格すれば、形の上では先生になれるが、本当にプロ教師になれるかどうかは別問題である。

クルト・レーデル氏は「棒を振るぐらいは、アマチュアでも少し練習すればなれますが、本当に指揮をすることにまつわる諸々は、それにひきかえ、はるかに多面的かつ複雑で・・・」と述べ、早い話が、勉強したところでなれるかなれないかは何ともいえないと答えている。
全く教師においても同様なことが言えると、私は感じている。

では、勉強してもなれるかどうかわからないなら、勉強する必要もないではないか?
という考えがおきるかも知れないが、これには、クルト・レーデル氏は「学べることは学ぶべきである」と答えている。

あるプロの指揮者は「あるオーケストラで、指揮者が務まるのはせいぜい2年ぐらいですよ」と言っていた。
そのわけは「初対面でも、半分ぐらいのメンバーは好感を持っていてくれても、あとの半分は反感を持っている。反感を持っている人間はアラ探しばかりやるから、それに耐えうるのが2年ぐらい」だと言うのである。

実は、指導に行っても一番怖いのがこれで、中学生でも高校生でも「どんな人だろう」と、好奇心と好意で迎えてくれる者と「なんだ、このおじさんは」という感じで迎える者がいるだろうということである。
反感を持っている者を好感に持っていくということは、一部可能としても、全員をそうさせることができるのかとなると、非常に難しいことである。
名指揮者となると、そこが素晴らしいところで、全員をファンにしてしまうのである。

潰れそうだったプロオーケストラを再建したある指揮者は、楽員から「神様と音楽ができて、おまけにお金までもらえるなんて」と言われた。
これは、もう最高の賛辞で、指導者たるものも「先生と勉強できて・・・」なんて一度でも言われてみたいものだ。

長々と書いてきたが、ひとことで言えば、指導者には「人格の壁」というものがあると思うのです。

教えることの専門的な勉強はもちろん必要だが、生身の人間と接することで、湧いてくる手だてがあるかどうか、いかにに全ての者をファンにできるかが課題であると思う。

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posted by edlwiss at 18:21 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
 素晴らしいですね。本当に感服しています。ますます貴方の教育に対する考え方に引き込まれ、またコメントを差し上げてしまいました。すみません。お許しを。私は貴方の思考法に感化され、モデル化できそうに思えてきました。

 一般的に、システム開発はユーザー要求分析から始まり、システムの機能条件を定義します。貴方なら良くご存知でしょう。要求機能さえ定義できれば、システムは出来たも同じ。でも、例外事項があります。シラミつぶしをすると、時間と開発量が発散します。何処かで切り捨てることになります。貴方の嫌いな腐ったリンゴを捨てることに例えられるかもしれません。通常のシステム開発はこの手順で十分です。

 切り捨て量はシステムの複雑度と大きさに関係しています。一般的に、ある複雑度や大きさのシステムになると、通常の開発手法は大変に困難になります。複雑度が爆発するわけです。インターネットの基本システムやOSなど膨大な開発量と複雑性であり、マイクロソフトさえ新製品化に苦しんでいます。逆に、多様化するユーザーのニーズに柔軟に応えるシステムを作ったほうが開発量が少なくなる地点があるはずです。教育は複雑な系です。教育用のシステムも同じように考えると良いのかも。貴方の素晴らしい説明に触発され、教育向けシステムのアイデアが浮かんできました。

 ありがとうございました。


Posted by tsuguo-kodera at 2011年03月20日 19:12
tsuguo-koderaさん、今晩は。

ロボットはどんどん人間化しているのに、人間の方はロボット化しているように、いつの頃からか考えるようになりました。

これは、ただ記憶して再生するだけの試験勉強がそうさせたのかなとも思っています。

いつの日か、人間とロボットがクロスして、ロボットの方が感受性が高く、思いやりのあるものになってしまわないかと心配しています。

人間がロボット化すれば、ますます仕事はなくなるでしょう。
Posted by dolce at 2011年03月21日 22:51
「人間がロボット化すれば、ますます仕事はなくなるでしょう。」全く同感です。その通りです。

 裏を返せば、人間がロボット化できないシステムを作れば良いことになります。これは必要条件です。十分条件にするのは確かにむつかしい。しかし今日の記事が示唆しているように感じています。貴方は近い将来の情報システムのあるべき姿を体現しているのでしょう。そのように私には思えてなりません。

 今日の貴方の記事も本当に参考にないました。このコメントバックと合わせて御礼を述べさせていただきます。ありがとうございます。
Posted by tsuguo-kodera at 2011年03月22日 05:13
tsuguo-kodera さん、今晩は。

手塚治虫さんは鉄腕アトムを書いて、現在ロボットを作っている人たちにずいぶん刺激を与えたようです。

手塚さんのマンガには「火の鳥」というのがあって、子育てロボットが嫉妬する場面が出てきます。

手塚さんはずいぶん先の時代まで先取りされた方で、彼の残された作品には人間とは何かがたくさん秘められているような気がします。
Posted by dolce at 2011年03月23日 22:11
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