2011年03月22日

シャーロック・ホームズのように

gaibu_naobu.jpg学生時代に教育工学という本を買ったことがある。
はじめに、人間の内部活動外部活動について説明があった。

人間の活動には、内部活動と外部活動があり、内部活動は決して見えないものである。
つまり、これは他人が本当に何を考えているのかという本心を直接知ることができないという説明であった。
それで、人は他人が何を考えているのかを知るために、外から見える外部活動を通して想像するのだということか書かれてあった。
だから、人は他人を見誤ることがしばしばあるのだ。

自殺が報道されると、決まってというぐらい「そんな様子は感じられなかった」とか「前日まで明るく振舞っていた」とのコメントがあり「だから、とても死ぬとは信じられなかった」という報道がなされる。
これなど、内部活動と外部活動が一致していない例だろう。

よく考えてみれば、人が本当に死を決意していたら、おそらく、自分が死ぬことを他人に知られたくないと思うのではないか?
だから、死の決意を悟られないために、逆にカモフラージュする行動に出ることも考えられる。

辛いことや不幸があって、楽しいはずがない。なのに、それと一致しない時の行動こそ不自然であり、要注意ではないかと思うのである。

homes.jpg
だから、言葉で言ったことをそのまま鵜呑みすると、本心を取り違えることもあると心得ておかねばならないのである。
言葉を表面的にとらえるだけでなく、その他の状況も観察して、何かチグハグなところがないかを読み取る感受性が教師には必要である。
しかし、何の苦労もなく、人の痛みも察しられない平々凡々と暮らしてきた人には、なかなか難しいことなのかも知れない。

名探偵を主人公にした、シャーロック・ホームズはコナン・ドイルの小説であるが、コナン・ドイルは学生時代に恩師である外科医・ジョーゼフ・ベルをモデルにこの小説を書いたとされている。

ヘルは観察力に鋭い医者であったと言われ、次のように言われている。

ベルは病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて学生らを驚かせた。コナン・ドイルは学生時代にベルの助手を務め、その所業を日頃から目の当たりにしていた※。

※一方でエイドリアン・コナン・ドイルは実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのある父アーサー・コナン・ドイルこそがホームズのモデルであると主張していた。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

名探偵と言えば「刑事コロンボ」も人気だったが、コロンボ刑事は、鋭い観察力で犯人の不自然さを見逃さず鉄壁のアリバイを崩す。

学校の先生は刑事や探偵ではないが、一連のデータから不自然さを読み取ったり、本心は何かをつきとめる力が必要だと思うのである。
特に、相手の心については鈍感であってはならないと思う。

中二の啓子(仮名)はしばしば非行を働いて、先生によく注意されていた。
体格がよく、小学校ではスポーツではよく活躍していた。
中学校ではバレー部に入ったが、サボることが多かったせいもあってレギュラーになれなかった。
成績はオール1に近く、本人にとっては、中学校に入って大きく挫折感を味わったことと思う。
先生たちにも次第に反抗的になり、頭を赤く染めてパーマをかけていたりした。

その啓子を三年で担任することになった。
部活には全く出席していなかった。

家に電話をすると、いきなり反抗的な口答えをした。
そして「私なんか、どうせバカだから」などという言葉が繰り返し出てきた。
「ほっといて欲しい。先生なんか嫌いだから」という言葉もよく出てきた。

彼女が「私なんかバカだから」という度に、私は「そんなことはない。啓子にもいいところはある」と答えた。
そういう言葉など全く響かないと思ったが「ほっといて」とか「嫌いだから、話したくない」と言いながら、1時間以上も電話を切らなかった。

嫌われているのはいいのだが、話したくないと言いながら、電話を切らないのは何かを求めているのだと私は思っていた。

その後の経過はここでは省略するが、卒業式が終わって数日経ったころ、突然職員室にやってたきた。
何やら紙袋を持ってきた。
何かなあと思っていたら、クッキーを焼いて職員室の先生たちに持ってきたのだ。

私は何があったのかと思って狐につつまれていたが、私のところへも来て「先生ありがとうございました。先生大好きです」と言った。

ますます、私にはわからなかった。
しかし、どうやら、わかってきたことは、反抗する啓子に「ダメなんてことはない。啓子には啓子のいいところがある」と繰り返し言っていたことが響いていたらしいということである。

中学生にとっては、成績が人間の序列のように思われて、そこに「こんな成績で」と言われたらさらに、落ち込むに違いない。
一番いけないのは、先生が、成績を人間の序列のように思うことだ。

誰かが、現在の入試制度を批判して「人間の能力を全部測れるものではない」と言った。
確かに、私もそう思う。だから、入試なんてものは「人間の能力のごく一部を試しているのに過ぎない」と私は思っている。

しかし、試験の序列で人を見るということが、体に染みついていると、言葉に出さなくても何かしら相手に、そういうことが伝わってしまうと思っている。

中学校に来て、すっかり自信を無くしてしまった男子生徒もいた。
私は放課後、彼を別の部屋に連れて行って、数学や英語を1年生からやり直させたことがある。
勉強にコンプレックスを持っていたいたせいか、始めはかなりの抵抗があったが、少しずつできるようになって行った。

彼も卒業すると、しばしば職員室へやってきた。
そして、車が好きだった彼はモータースで働いて、その様子を話してくれた。
その彼は、やがて2級整備士の資格を取ったと行って報告に来た。

私が誰でも立派になれると思ったのは、斎藤喜博の「教育学のすすめ」を読み「君の可能性」という章に刺激されてからだった。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ


posted by edlwiss at 16:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。