2011年03月23日

教師が介入すべき時

gakkougausinatteha.jpg学力をつけるということは、間違いなく教育の目的の一つです。
しかし、学力という意味を正しく理解していない人がいるのか、これを批判する人もいるようです。

学力をつけるということは、知識を丸暗記することではありません。
得た知識をもとにして、予期せぬことに遭った時にも対応できる力、すなわち知能を高めることでもあると言えます。
簡単にいえば、独り立ちできる力を養うとも言えます。

独り立ちできるかどうかは、時にひとりでやらせてみなければわかりません。
その点を踏まえないで、目の前のことをただ処理することだけに目を奪われていては、何のための活動の場なのかわからなくなってしまいます。

ある小学校でのできごとですが、4年生の隆君(仮名)が帰宅したところ、頬が赤いのを母親が見て原因を問いただしたところ、クラスの者全員から頬を殴られたということがわかりました。

母親は驚いて、担任にこのことについて聞きました。
そうしたら、クラスの話し合いで、宿題を忘れた子はこんなで頬をたたくということが決まったということでした。

母親はびっくりして、どうしてそんなことをするのかと問いただしたら、担任は「みんなで、多数決で決めたことですから」と答えたそうです。

これでは、何のために指導者たる担任がいるのか、意味がないわけです。

日本では年齢に応じて、責任の度合いが決められていて、20歳になれば何でも自分で自由に決められる代わりに、責任も全部自分で負わなければなりません。

逆に20歳までは、大人の誰かが責任を持つということです。
そして、20歳になるまでに自由に振舞っても社会の一員として、間違いないように育てるように大人が責任を持つとも言えます。

だから、時と場合によっては、子どもに自由に自治権を渡してみて、それが誤った方向にいく場合は、教師は介入しなければなりません。

時に、子どもは自分たちが多数決で決めたことは絶対に通ると勘違いし、教師が介入すると「先生は、僕たちを思うようにしたいんでしょう」などと反論してくることもあります。
しかし、そういう時こそ教師の出番であり、力の見せどころでもあると思います。
これが、かつて述べた「サーボ機構」と似ていると言ったことです。

この宿題の問題はよくない例ですが、逆に素晴らしい例もあります。
これは、山奥の学校の例ですが、自分たちも海へ行って海水浴がしたいという提案がありました。
それで、話し合いの結果、大多数の子どもが賛成して可決しました。

大多数というのは、5人だけ反対者がいたからです。
その子たちは「海は嫌いだから行きたくない」などと行っていたそうです。
しかし、他の子どもたちは、それで終りにしませんでした。

5人の反対理由に納得できず、調べたら、5人の子たちは親に経済的負担がかかるからと思って反対したのだということがわかりました。

理由を知った子たちは、みんなで栗拾いをやろうと提案し、栗を拾ったお金で海水浴の費用を作って全員海水浴に参加しました。

誠に、大人が手本にしなければならないようなことを子どもがやったと思いますが、これが子どもの提案でできたということは、下地に家庭や教師のそれまでの教育の成果が出たとも言えます。

今回の東北の地震では、小中高生が自分たちでボランティアに参加しようと決めて参加し、お年寄りたちが涙を流して喜んでいる姿がありました。

アナウンサーが子どもの一人に「どうして、参加する気になったの」と聞いたら、女の子が「気がまぎれるかと思って・・・」と答えていました。しかし、もっと調べてみると「逃げる時、命を助けてもらったから、みんなのために何かをしよう」ということだったということです。

今、指示待ち人間が多いと言われていますが、この子たちは自分たちも被災者でありながら、誰に言われることもなく、多くの被災者の中で自分たちでやれることを見つけて手伝っていたというのは、すばらしいことだと思いました。

これも、急に身についたことではなく、親に育てられる中で培われてきたものだと思います。学校の先生の日頃の教育の影響もあるかも知れません。

「人を見て法を説け」ということで、前に記事を書きましたが、こういう風土のところへ「人を疑うことばかりに慣れた人」が来ると、逆に戸惑うかも知れません。

最近KYという言葉が流行っていますが、教師はKYをよく掴んで指導をすべきだとも言えます。

集団には、集団の集まった空気というものがあり、うまい空気、まずい空気があります。
うまい空気の時は、子どもを信頼し任せてみることも必要だと思いますし、それがまずい方向、暴走しそうだったら、教師が介入しなければなりません。
特に教師があれこれ言わなくてもうまく行った時は、ほめることで子どもたちはますます自信を持つのではないでしょうか?

「任せてもいいかなあ」と感じるようになるには、それまでの先生の学級経営、生活指導、教科指導の下地があるのだと思います。

私は部活動の指導において、自由に休める制度を作ったと言いましたが、それも空気を感じてやったことで、別な言い方をすれば生徒たちが信じられると思ったからやったことです。また、生徒たちは任せられたということで、よけいに真面目に取り組むようになったと思います。

欠席の承認を得るのは、賛成を得るまでもなく、当然、やむを得ない理由もあります。
そういうことで、忘れられない思い出もあります。

欠席の承認を得るのは、コンクールや演奏会が近づいた時は、当然のことながら許可を申し出ないという常識を生徒たちは持っていました。

しかし、部員の中に時々生活指導上問題のある者が生徒がひとりいて、彼は1年の時からしばしば問題を起こしていました。
よく見ると、シャツの開いたところからネックレスが見えていたこともあります。
隠れてタバコを吸っていたこともあったようです。

しかし、そういう彼もみんなが認めていることがありました。
それは、彼はトランペットだったのですが、やすやすとハイトーンを出してしまうことです。
それで、不安をかかえながらも、彼を頼っているという状況でもありました。

部活は、夏休みに入って始めのコンクールを通過し、次の大会に備えて練習にも熱が入ってきて、大会も間もなくという時に、彼が休みが欲しいと申し出ました。

みんなはびっくりして、シーンとなりました。
気持ちは、当然、常識がないという思いでした。
だが、誰も意見を言いません。不良じみた彼が怖いという気持ちもむあったと思います。
みんなのガッカリしたような気持ちも感じられました。

私は、みんなのことを考えない利己的なやつだと思いました。
ここは、ひとつ出なければいけないかなと思いましたし、みんなもそれを期待していたかのようでした。

しかし、少し間があいた時、彼が突然「違う、違う」と言い出しました。

何だろうと思うと、彼が話し始めました。

「オレ、今度の○○のキャンプでボーイスカウトのリーダーでやらなきゃいかん仕事があるので・・・責任があるので」

と説明しだしたのです。
彼は、自分の申し出が、気まぐれで無責任と思われたと悟ったのです。
続いて彼は

「オレ、責任果たしたら、途中で絶対戻ってくる。○日の練習には絶対くる」

と言いました。

結局、休みは認められましたが、私は正直なところ、半信半疑でいました。
おそらく、部員の多くもそうだったと思います。

やがて、彼が戻ってくるという日になりました。
練習の途中で、部屋のドアがみんなは気になっていたいたようです。
私も気になりましたが、努めて平静にしていました。
少し、重苦しい空気でした。

突然、パッとドアが空き、勢い良く彼が入ってきました。
すると、一斉にみんなが拍手をしました。

私がホッとしたのももちろんです。

たわいないことかも知れませんが、素行上問題のある彼が、みんなの気持ちを大切にしてくれたことが嬉しかったのを覚えています。

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posted by edlwiss at 08:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
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