2011年03月26日

見失ってはいけないもの

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世の中にはいろいろな人がいて、うまくいったときに「よかったね」といってくれる人がいるかと思えば、皮肉めいた嫉妬のようなことを言う人もいる。

嫉妬でも「そうなりたいねえ」という類のものはいいが、何かアラ探しをしようとしているとしか思えない発言や、自慢をしているように言う人もいる。

私はスケールの小さなことが嫌いで、このように「人間が小さい」「器が小さい」と感じる人が大嫌いである。

学校の先生は、それぞれ担当の教科があって、それを唯一の自分の砦にしているように見える人もいる。
そして、よく「専門」という言葉が出てくる。
私は、小中高の先生が、教科について専門というのには違和感を感じる。

誤解のないように断っておくが、違和感を持つというのは、私がそう感じるということであって、言いたい人がそう言うことについて異論を唱えるものではない。

中学校時代の恩師で、毎日理科室で研究をしていて博士号を取った先生がいた。
凄い先生だなあと思ったし、こういうのは専門だなあと感じる。

知人で、教科は音楽なのだが、英語にめっぽう強い人がいて、吹奏楽部の指導をしていたが、英語がわからないという生徒に英語を教えていた。
それで、生徒は英語の成績が上がったのだが、それを不愉快に思っている英語の先生がいた。

こういうことを知ると、先生という社会は狭い社会だと感じる。
教科がなんであろうと、いい指導している人がいたら、それを学ぶという姿勢がいいと思う。
でも、先生という社会は、互いに他の教科の砦に入ることはまずいらしい。

そういう私も、大学での専攻は音楽ではない。
ただ音楽が好きでやっていただけだ。
しかし、先生になったら使う方が「こいつは音楽ができるらしい」と感じて、使われてしまっただけだ。
力をつけたいなら、狭い教科の砦に閉じこもることなく、学べるところはどこからでも学んだ方がいいと思うのが私の生き方で、音楽の先生と思っている人もいるがそんなことはどうでもいいと思う。

子どもの頃から工作が好きで、それが電気工作の方に特に興味を持つようになった。
中学校では、工学部の電気科出身の先生がいて、その先生がオーディオの自作をしていたので、その影響を受けた。
理科の先生だが、音楽が好きな人で、自分の作った装置でたくさんの曲を聴いていた。

私もアンプをたくさん作ったが、音源がクラシックの録音なので、必然的に私もそれを通して音楽を聴くようになった。

日本の電気製品は世界的に有名だが、オーディオとなると必ずしも強くなかった。
それは、日本ではオーディオ製品を測定器だけで作っているだけだからと言われ、技術者が音楽を知らないからだとも言われてきた。

だから、専門ばかりに閉じこもっていると、よい製品が作れないように、指導者もいろいろなところから学ぶ方がいいと思うようになった。

ところで、指導者となると「オレが教えた」とか「オレが育てた」とか言う人がいるが、私は、恥ずかしくてとてもそんなことは言えない。
前に書いた記事で、運良くコンクールを通過したというのも、運も重なったのだろうが「捨ててかかれ」と言われた生徒たちを見たとき、これは素晴らしい子達たちだ、嫌われても精一杯やらなければいけないと感じただけで、私の信条「誠実」に基づいて行ったことだ。
精一杯やっただけで、生徒たちの能力をどれだけ生かせたのかはわからない。
いや、むしろもっとわかっている指導者なら、もっといい結果を出せたのだろうと思う。

「誠実」は信条だが、指導の理念は生徒の伸びる芽を摘まないことである。
私にとって「オレが教えた」というのはとんでもないことである。

だから、生徒の中には「オレが教えていたんでは、いけないのではないか」と思う生徒もいる。
それで、先生を探してお願いした場合もある。
その結果、生徒が才能を伸ばして立派になって有名になると、たまに、私が教えたと勘違いする人もいるが、これは生徒にとって、とても迷惑な話である。

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吹奏楽コンクールと言うと、吹奏楽の世界を知らない人からしたら、何か凄いコンクールのように思う人がいるかも知れないが、そんなに凄いものでもない。

「吹奏楽の甲子園」と言われると紹介していた人がいたが、とてもそんなものとは言えない。
高校野球は、プロへの登竜門になり得るが、吹奏楽コンクールは全くそうはならない。
全国大会金賞だったら、プロから声がかかるかと言ったら、全くそういうことはない。

子どもたちがそのコンクールで賞をとることに、価値を感じていたら、目標として価値があるかも知れないが、広い意味で音楽を目指すとしたら、そうでもない。

たまたま、代表になって嬉しかったという時もあるが、そうでない時もある。
あるコンクールでは、演奏後「○○中学校は、絶対に3位までには入るからいいねえ」なんて囁かれていたとき、結果、全くそのランクでない時もあった。
発表で、自校の生徒ではなく他校の生徒が泣いていたのが印象的であった。

この時は、私もさすがに頭に来て、翌日の練習にやる気が出なかったので、生徒たちに「今日は練習止めようか」と言おうと思っていたら、いつもと同じように楽器を準備する生徒たちを見て、自分が励まされた。

いわゆる、教育ママは多い地域だと聞いていたが、学習塾に通う生徒は部活内にはほとんどいなかったように思う。
しかし、先生についてレッスンを受ける生徒が多くなった。
私が勧めたということは全くなかった。

つまり、生徒が音楽を好きになったということは確かであり、そういう意味ではコンクールの賞はあまり関係ないと感じました。
むしろ、賞にこだわる先生の方が恥ずかしいと思いました。
スポーツでも同様なことが言えるのではないでしょうか。
昔から「勝負は時の運」と言います。負けたからと言って、嫌いになるものではないのではと思います。

ある日の土曜日、今日は練習時間があると思って音楽室に行ったら、生徒が一人しかいないということがあった。

「みんなどうしたんだ?」

と言うと

「レッスンです」

というので、まさかと思って調べてみると、レッスンのない生徒一人をおいて、あと全員がレッスンに行っていたのでびっくりした。

子どもの方が親にお願いして、レッスンに行かせてほしいと言ったらしい。
親もそれをよく承知したものだと思った。

そんなわけで、進路に音楽を目指す者が多くなって、私も驚いた。

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吹奏楽は行事には便利だが、いわゆる大作曲家の作品が非常に少ないのが欠点だと思う。
必然的に、編曲が多くなるが、バッハの「トッカータとフーガ」とかワーグナーの
作品とか、チャイコフスキー、ラヴェル、近年ではバルトークの「中国の不思議な役人」
などやっているが、無理をしていると感じる。
余談だが「中国の不思議な役人」を中高生にどう指導しているのか、私には想像がつかない。

それに、吹奏楽はどうも変ロ長調の臭いが強く、吹奏楽自体を否定するつもりはないが、いくら好きなカレーでも1週間以上も食べていると・・・という感じがないわけでもない。
変ロ長調の臭いが強いというのは、楽器自体が変ロ長調が多く、転調しても変ロ長調の倍音が出てしまうからだと思う。
そのせいか、最近ではトランペットにC管を使ったりするところもある。
また、編曲の時、原調ではない調に移調してしまうことがあって、これがなんともしっくりこないことがある。

そういうせいか、先輩たちは、吹奏楽をやめてオーケストラに移行した人たちがいる。
当市でも、吹奏楽だけでなく、オーケストラを推進していく傾向はこのところ多くなっている。

私の場合は、オーケストラに興味は持っていたが、生徒や保護者の意向が吹奏楽という方向だったので、そのまま続けていた。

ところが、部活が安定してきたところで、オーケストラから声がかかった。
オーケストラの指導でなくて、演奏者としての勧誘だった。

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このブログは私の体験をもとに書いているものであって、私のやり方がいいなどと言うつもりは毛頭ありません。

たとえ、部活は違っても、あるいは指導においていろいろ体験を積まれた方、そうでない方でも、誹謗中傷を目的としない方のご意見は率直に賜り、勉強させて頂きたいと思います。

しかし、無責任な空想を元にした意見や占い師のような意見には関わりませんので、よろしくお願いします。

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posted by edlwiss at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
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