歴史的に見ても、この国(日本)は組織のために人が犠牲になるという伝統があると思う。
私はこのことに気づいてから、この国やその他の組織に起こる事件について、そういう視点から見てきた。

第二次大戦における戦い方を見てもよくわかる。
日本は零戦が活躍し、連合軍側の戦闘機を脅威に陥れた話は有名である。
アメリカはずいぶん零戦に悩ませられ、対策会議を行ったが、当初は防ぎようがない、とにかく逃げることを考えるというような結論を出していたらしい。
ところが、ある島で、ほとんど無傷の零戦をアメリカが回収してから事情が変わったようである。
アメリカは無傷の零戦を調べた結果、相当に驚いたようである。
驚いたのは技術力より、根本的な設計がアメリカ人では考えつかないものだったからである。
それは、アメリカでは戦闘機を設計するにあたって、まずパイロットをいかに守るかということから出発している。
だから、必然的に操縦席は重くなるので、機体総重量も重くなり、その結果燃費も悪くなるし、機動性(格闘性)も低下することになる。
これに対して零戦の場合は操縦席はできるだけ軽くする。
パイロットの後部のしきりの鉄板は、できる限り薄くするだけでなく穴をあけてくりぬいたようである。
さらに、機体を軽くするあらゆることを考えたという。
アンテナの台座は木製だったという。
つまり、零戦はほとんど攻撃を目的として設計され、攻撃された場合の防御はほとんどなすすべがなかったようである。
それでも、アメリカは零戦のまねをすることはなかった。
あくまでもパイロットの保護という出発点は変えなかった。
操縦席は厳重にし、なおかつ零戦を上回る戦闘機を作れと命令した。
当初、そんな飛行機は作れないと技術者たちは言ったそうだが、全米の技術者を動員しこの難問克服が至上命令になった。
やがて、攻撃されても強い、なおかつ零戦の性能を上回るグラマンが製造された。
それから、零戦の優位が失われていったのは、言うまでもない。
私が懸念するのは、この国はそういう戦争の反省ををするつもりもなく、依然として人より、人のまわりにあるもの、つまり筺体や組織の方を人名より優先するという考えが続いているのではないかということである。
もしかしたら、日本人の血はそういう血ではないかという不安さえおぼえる。
そして、組織のためには我慢する。だれかが首を吊っても、心は痛むのかも知れないが、全体のためにはいたしかたないという思想がどこかにありはしないか。
また、首を吊る人の中には「私が死んだら、保険金で借金を返してください」と遺書を残す人もいる。
これは、全然の特攻隊や人間魚雷と全く変わらないのではないか?
私が不安に思うのは「被災地の人たちの気持ちを汲んで」と言うのだが、それは大義名分であって、為政者に流れている血は「組織を守ろう」そのためには「少々の犠牲もやむを得ない」表面的には「正義を語ろう」になっていないかということである。
「原発があれば企業を守るエネルギーは確保されます。そのためには原発地域に住む人たちは犠牲になってください」になっていないか?
「そのためには、お金をあげます」ではないか?
そして、そのお金に群がる人たちがいる。
許せないのは、お金に群がるくせに自分は原発事故が起こっても安全なところに住もうとする人たちだ。
だから、私は原発推進者は自ら原発敷地内に住めと言うのだ。






真意に国の為を思うなら、被害者を出さないように平和を守らなきゃ駄目だよね。
国の為に犠牲になるんじゃなくて、犠牲者を出さないことが国の為だという当たり前のことを分かろうともしない。
その傾向が今も残っているんじゃないでしょうか。
組織の為なら犠牲者を出さないことが基本ですよ。
組織の中で頑張る人は、犠牲じゃなく自分の持ち場として遂行しやりがいを持たないとね。
それを「私は犠牲になってるんだ」と正気で言ってるような人は辞めていただいた方がいい。
組織の為なら信用が不可欠。犠牲にさせてまで無理してやらせるなら、管理の仕方も問われますね。