2011年10月13日

捏造するあなたは信用できない

教育に関するホームページやブログは多い。
インターネットの普及によって、情報発信は多くなり、今や非常に多くの情報があふれている。

便利な一方で、情報を得る側としては、その情報がどの程度信ずるに値するのかという判断が大切ということになってきた。

そこで、正しく情報を受け止めるためには、どうすべきかを考えてみた。

根拠が不明な意見は疑いを持つべし

「〜は〜だ」という言い方に注意しよう。

「警察は民事事件を受け付けてくれない」
「学校は病気の治療をしてくれない」
という言い方は正しい。
しかし
「学校は子どもたちに、理解させることができない」
というのは、どうでしょう?
学校という「集合体」全部を指して、そういうことが言い切れるのでしょうか?
もし、そう言い切れるとしたら、その根拠は何でしょうか?
そのようなことが言える調査をしたのでしょうか?

「学校の教師は人間だ」
というのは正しいですが
「学校の教師は指導力がない」
というのも、何かそのような根拠があるのでしょうか?

そういう人の経験で、たまたまそのように感じる場面を見たというのなら、気持ちはわからなくもないですが、一般的な意見としてそのように言えるのかどうか疑問です。

日本という国を紹介する時
「日本は殺人のある国だ」
と言ったら、言っていることは間違いないですが、真実を伝えていることになるのでしょうか?

同様に
「学校では教師の犯罪がある」
と言ったら、確かにそういう事実はあるでしょうが、印象としては学校の中では教師がよく犯罪を行なっているという印象を与えないでしょうか?
やはり真実を語っているとは言えないでしょう。

意見をいう時には、誤解を与えないように気を配ることが大切です。
しかし、言い方によっては、誤解を与えるように意図し、印象を誘導することもできます。
つまり、悪意を持っているということです。

もし、そういう悪意で語る人が子どもを何か指導する立場にいるとしたら、それは指導者としてふさわしいでしょうか?

以下の例は、あるブログである人が語っていることで指摘したものです。
「すべての学校を指してととられる『学校は・・・だ』という言い方はおかしいのでは」と意見を言ったら、そんなことは言っていないというので、具体的に指摘したわけです。

>学校は理解を大事にと言いながら、実は子供たちに理解すらさせられないというのが現状です。

>これは学校が、理解させる説明すなわち「分かりやすい説明」というものを大きく勘違いしているからです。

>子供たちに学校で行われている授業内容を聞けば、学校はどうやら、ゆっくり・丁寧・詳しく・奇抜であればよいと思っているようです。

これらは、すべて「学校は・・・だ」という言い回しですよ。


これに対に対して「これは引用であり、私が言っているのではない」と言うのです。
引用であっても、賛成の意向で引用したなら、自分も言っているのと同じだと思います。

批判や反論を受けつけない意見に説得力なし

もし、自分が正々堂々と自信を持って意見を述べようとするなら、批判や反論を受けつけないという態度はおかしいと思います。
批判や反論、質問といったものは、いわば耐久テストのようなものだと思います。

批判や反論を受けつけないというのは、防水時計ですよと言っているのに、防水テストを拒否しているようなものです。
防水に自信がなければ、防水テストはまずいということになります。

同様に、批判、反論拒否は自分の意見に自信がない表明のようなものだと思います。

稚拙な教育論では説得力がない

自分は教育のプロだと言って、大見得を切っているのに、学習指導は「何回も反復練習させる」それで効果がない場合、言ったことをやらない場合は「体罰」という程度のことしか言えないのは情けない感じがします。

これでは、親が、自分の教え方に自信をなくして、塾へ行かせたり、家庭教師をつける意味がないと思います。
プロと自負したいなら、親が手こずっているのに「さすが」と思わせる指導ができることでしょう。

基本が大切と言いながら、自分の子どもを教える基本はどうなのでしょう?

抽象的な言葉の羅列に注意

抽象的な言葉に終止する話(意見)も問題だと思います。

公立学校の現状ブログを運営しているときに数名の教師と議論しましたが、正直全て不毛なものでした。この記事に書かれている教師と同じような感じで、話がずれたり、現実に即さない理想論を語ったりで、話が前に進みませんでした。


これは一例ですが「不毛」というのは、誰が判断してのことなのかということです。
自分が不毛と思っても、他からみたらそうでないかも知れない。
自分の理解不能な部分や嫌な部分を「不毛」の一言で片づけてしまっていると思われても仕方がない。
自分が不毛と判断したら不毛なんだというのなら、驕りでしょう。

「話がずれたり」というのは、ずれる原因が何かを知りたいと思う人はいるでしょう。
ずれる原因は、相手なのか自分なのか具体的にどういう内容なのかがわからなければ、まるで相手が悪くて話がずれると決めつけているようなものです。

「現実に即さない理想論」というのも個人の見解であって、その具体的な話がどうなのかは他からみたらわかりません。自分の独断かも知れません。

人の話を捏造する

これも実際にあった話。

とかく、学校の悪を言いたい塾の経営者に「すべての学校がそうとは言えないでしょう」と意見を述べたら、何か気に触ったとみえて、他人との会話の中で

「(彼の人)は塾や家庭教師が大嫌いだそうです」

と言っていた。
これで、この人は自分の話の都合では、他人が言ってもいないことを勝手に創作してしまう、つまり捏造する人なのだと思った。
(もちろん、私は塾や家庭教師が嫌いだなどとは言っていない。
ちなみに、私は家庭教師の経験もあるし、知人に塾経営者もいて、時々相談を受ける)

自分が言いたいことを主張するのはいいが、捏造はいけない。それだけで子どもに教える資格はないと思う。

そうすると、この人が意見を言う時に持ち出す例は、すべてが疑わしくなってしまう。

真意はどこに?

学校教育の実態をみるに、ひどい事例もあれば、いい事例もある。
とかく悪い事例は目立ちやすく、マスコミにも取り上げられやすい傾向は否めないと思う。

反対に、よい事例(実践)は目立ちにくく、地味であるという傾向があると思う。
(パフォーマンスで良いとみせかけている実践もあるが)

siawase_gakusyuuzyuku.jpg子どもが好きで、子どもの笑顔が見たい、子どもの成長を心から喜ぶことのできる教師たちによって、教育は支えられていると私自身は感じている。
教育は数字だけではわからない部分がある。

しばしば、例に出すのだが、私が小学生の時、放課後理科室に遊びに行くと、いろいろな実験器具を使わせてくれたり、一緒になって水素を作り風船を飛ばした先生。

中学生の時、毎日毎日どじょうの観察をして、博士号をとった先生。
自分でアンプを作って聴かせてくれた先生。
何でも信用して任せてくれた先生。

そういう先生方の思い出は強く心に残っていて、大人になってからも、私のエネルギーになっている。

試験を通過するには点を取らなければならない。
点を取ることだけに意味を見出す人はどのくらいいるのだろうか?

点を取ることだけに、家畜にムチ打つようにされたなら、子どもはますます勉強嫌いになるのではないか?

私は受験そのものだけに、目標を持つやり方に抵抗を感じた。

しかし、高校三年の三学期になって、大学へ行くということはどういうことなのかを感じた時、それは自分の好きなことがやれるんだとわかった時、エネルギーが湧いてきた。

そうしたら、一年以上かかってダラダラとやっていた参考書が、わずかの間に、瞬く間に終わってしまった。
入試まで三か月足らずだったのに、自分でも驚くほど受験勉強がはかどった。

これは、中学時代、オール1だった生徒が、卒業後間もなく整備士の国家試験に合格して私のところにやってきたのと同じようなものだと思った。

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他を悪く言うことで、自分の地位が上がるとでも勘違いしている人はいないか?
受験指導が教育と勘違いしている人はいないか?
わざわざプロという言葉を使わないと、自分のプライドが保てないという人はいないだろうか?
ただ、自分がボスとして君臨したいだけで、子どもをダシにしている人はいないだろうか?

何ごとにも言えることだが、人を選ぶ時は、その人の本音、真意を知ることが大切だろう。

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posted by edlwiss at 15:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題
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