2012年01月30日

あなたの学力の定義を教えて下さい

近年、児童生徒の庫力が低下し、その原因を追究し回復をすることが急務と思われる。
庫力の低下が問題となるのは、児童生徒が家庭にいる時より、外出時に低下するもの考えられ、特に夜間の外出には配慮する必要がある


上記の文の意味がわかるだろうか?

誰もわからないだろう?

なぜわからないのだろう?

それは、上記の文中の庫力の意味が不明だからである。

学力論議の不思議

学力という言葉が出てくると、書いてある文章の意味が私はほとんどわからない。
なぜわからないのかと言うと学力の意味が不明だからである。

作者が「私は学力の意味○○と考えて論述する」と断っていれば理解できるのだが、そういう文章は非常にない。いや殆どないと言ってもよい。

そういう意味では始めに示した、わけのわからない文章と大同小異である。

学力の意味を示さず書いてある文章の作者に、学力の意味を質問すると、返事はない。
ひどいものは、クレームをつけたととる者もいる。

本人が使っている言葉の意味を問われて、文章を書いた本人がわからないというほど、無責任でおかしな文章はない。


gakuryokuteikaron.jpg
「はるさめを買ってきて」

と言われた子どもが

「はるさめって何?」

と聞いても答えないようなものだ。

「ききわけのない子だねえ」

と叱りつけているようなものだ。

学力の意味を調べてみる

答えられないのなら、せめて辞書なりなんなりで調べたらどうかと思うのだが、自分の使う言葉に無責任な人ほど、調べるということをしないように思う。

学習によって身についた知的能力。
しかし日本においては、概ね 筆記試験によって 学力が評価されるため、実質的には、 学力=記憶力。
これは、はてなキーワードによる説明である。

おもしろいのは、日本においては、概ね 筆記試験によって 学力が評価されるため、実質的には、 学力=記憶力。
というところである。

そうなのだ、学力の意味を明確にせず論述している文章を読むと、学力=記憶力と考えているのだと思う。

だったら、わざわざ学力なんて言葉を使わず、記憶力という言葉で論じた方がわかりやすい。

テストも学力テストでなくて、記憶力テストとしたらどうだろう?

私がこのようなことを言うと、率直に言って頭の悪い人は「記憶力テストがなぜ悪い」とか「学力の一部には違いない」と言ってくる。

私は記憶力テストが悪いなんて全然言っていない

記憶力テストの意義を認めないわけでもない。

記憶力が学力の一部には違いないと言えるなら、学力の全体像を説明してもらいたいものだ

学力(がくりょく)とは、人間活動における基礎となる学ぶ力のことである。

学力は、人間の基礎的な能力の1つである。人間は、「学力」を駆使することによって、さまざまなことを経験し、その経験から新しいことを学ぶことができる。人間活動の質に差違をもたらすものの1つに学力もあると考えられており、近代以降において学力は、十分な施設(校舎・運動場など)・人材(教員など)などを有する学校によって保証されなければならないという思想が広がった。そのために義務教育の制度が定められた。
学力を狭義に捉えれば、学校教育(就学前教育・初等教育・中等教育・高等教育)によって修得した能力とされるとともに、学校教育によって得ていなくても学校教育で得られる能力と同質のものも学力とされる。
学校における教育には、目的(なぜ行うのか、why)および目標(何を行うのか、what)が規定されており、学力検査は、教育の「目的および目標」に基づいて学力を測定する。しかし、測定できる事項には限りがあり、主体性・自律性・協調性・感受性などの測定は、困難である。
この説明は納得できる。
これは、フリー百科事典「ウィキペディア」によるものである。

この説明の中で、特に大切なところは近代以降において学力は、十分な施設(校舎・運動場など)・人材(教員など)などを有する学校によって保証されなければならないという思想が広がった。そのために義務教育の制度が定められた。
というところである。

なぜかというと、学習塾が教育をやっていると勘違いしている阿呆がいるからである

学力を保証するにはということで、研究をした結果。条件を洗い出し、その条件を整えるために学校が作られたわけで、教育では学校のような設備が必要だということである。

もちろん、これは設備の条件であって、こういう設備を整えれば学力を保証する教育ができるというものではない
必要条件であり、十分条件ではない。

勘違いの中には、受験指導や対策を教育だと思い込んでいる輩もいる。

国が国民全部に必要と考えた教育は義務教育であり、言い換えれば小中の義務教育以外は国民に課せられたものではない。

中学校を卒業すれば、進学するかしないかは自由なのである。

しかし、次第に義務教育後も進学希望者が増えたので、学校はサービスとして受験対策もするようになった。
それが、教育課程にも入り込んで本来の教育を蝕むようになった。

本来は、中学校を卒業したら、個人で勝手にやってくださいなのである。

私の時代は古い時代で田舎でもあり、進学希望者は少なかった。
それで、進学者のための授業を課外で行なっていた。
私はそういう授業に出たくなかったので、出なかった。

県によっては高校入試の科目を国・数・英だけにしたこともあった。
それで、社会、理科の先生で「これで、本来の教育ができる」と喜んだ人もいた。

学習塾の講師はほとんど、受験指導が本来の教育とは思っていないだろうが、中にはバカな者もいて、教育と勘違いし、もっとひどい者では受験教育こそ教育の中心と考えている者がいる。
○○教育と、教育の前に接頭辞のつくものは、広い意味での教育という集合体と同一ではない。例えば「軽自動車」と言った場合、それは自動車全体を指しているのではない。そういう意味では学校教育も教育全体の集合体を表しているものではない。しかし、学校が教育という集合体のかなり大きな部分を占めていることも間違いないだろう。

教育がやりたいなら、少なくとも、学校としての条件を整えて認可を得るべきである。

学習塾が教育をやりたいとして、認可を受けて教育を行うことはおおいに結構なことだと思う。
例えば、学校法人名進研学園

ここでも、断っておきたいが、また頭の悪い人が、私が塾の悪口を言っているとか、塾が嫌いと言っているなど捏造する人がいるということ。

私がそういうことを言っているかどうかは、大して難しい読解力は必要としないと思う。

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posted by edlwiss at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
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