2012年03月21日

なぜ、教師は世間知らずと言われるのか〜その3

■情報難民

世間知らずは、教師に限らないと思うが「教師は〜」と言われるのは、それだけ教師に対しては印象が強いからではないかと思われる。

まず、教師でない人からは、相手が教師だとわかると構えるというところがある。

それは、いい意味でも悪い意味でもある。

いい意味では「そうか、先生なのか、じゃあ知識があるんだ」という尊敬の念があるとき。
悪い方は「先生か、やっかいだなあ」という感じの時。

問題は、悪い方の意味の時である。

1.先生というのはプライドが高くて、ちょっとご機嫌を損ねると大変なので、いつも気を遣わなくてはならない

2.一度言い出したことは訂正しない

3.ご説をごもっともという態度で聞かなければならない

ということで、先生に対して意見を言うということがなくなってしまう。
かくして、先生には他から情報が入りにくくなる。

自分の持っている情報が陳腐になっているにもかかわらず、それに気がつかない。

つまり、情報難民になっていくわけである。

そして、情報難民同士の世界ができると、その中で権威を作ってしまう。
先生の世界だけで偉い人ができてしまうわけである。

先生の中だけの権威というものは、危ういものかも知れない。
しかし、そこは先生だけの世界という砦で守られる安心感がある。

学校には情報主任という係があったりするが、肩書きはともかく、それなりのプライドを意識する人もいる。

ある学校を訪れた時、一人の先生がネットワークが繋がらないと困っていた。
それで「このパソコンのipアドレスは何か、係の先生に聞いてください」と言ったら、その先生は情報主任らしき人に聞きに行った。

情報主任はすぐ近くにいたので、話が聞こえてきた。

「外部の者に、そういうことを教えるのは・・・」

というのが聞こえてきた。

ここの情報主任殿は、ローカルアドレスの意味がわかっていなかったようだ。

それより、問題は、情報主任殿にしては「オレの領域に余計なやつが入ってきた」という心理のほうが問題であったのだろう。

望ましい姿勢としては、誰か自分以外に知識を持っている者がいるとしたら、その者からも学ぼうという姿勢がいいたと思うのだが、どうも、心の狭い人もいる。

その情報主任殿は、職員室でみなに聞こえるように

「LINUX、あれははまるよ

と言っていた。

おれは、そういうことも知っているという宣伝が本音だろう。

間違っても

「そうですか、LINUXにはまっていらっしゃるんですか?、で、どんな風に使ってみえるのでか?」

なんてことを聞いてはいけない。

そんなことをしたら「いやなやつ」という印象は決定的になるだろう。

もちろん、LINUXについての設定やトラブルについてお願いしてもいけない。

しかし、職員室で「LINUXにはまっている」と大きな声で言うことで、他の人たちに「すごいんだ」という宣伝にはなる。

かくして、教師の世界自体がローカルになるので、情報難民となりやすい環境があると言える。

■いつも、求めているものがあるか?

ずっと絵を描いていたいということで先生になったという人は、いつも求めているものがあるということだから、自分の時間は絵のことで頭がいっぱいなんだろうと思う。

そういう人は、自分が絵がうまいなんて思っていなくて苦しんでいる。
いつも、現状の自分を打破したいと考えている。

それは、情報を求めていることになる。

時には子どもの作品からヒントを得ることもあるだろう。

だから、こういう人は態度が自ずと謙虚になる。

教師でも世間知らずの範疇に入らない人の目安は、謙虚であるということだろう。

マルタ・アルゲリッチという世界的に有名なピアニストがいるが、ある人が彼女に

「あなたは、ピアノがお上手ですが、どんな先生から教わったのですか?」

と聞いたら

「私の前にも後にも、先生なんていません」

という返事だったという。

でも、彼女にはこの言葉が不自然に感じられない。

それほどのピアニストだからだ。

でも、こういう人はそんなにいるものではない。

一方、ナタン・ミルシテインという、これまた凄いヴァイオリニストがいた。

ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン(Ната?н Миро?нович Мильште?йн 1903年12月31日、オデッサ - 1992年12月21日、ロンドン)はウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。英語読みではネイサン・ミルスタイン(Nathan Milstein)。1942年にアメリカ合衆国の市民権を取得。89歳の誕生日を目前にイギリスで没した。

母親の奨めでヴァイオリンを学び始め、11歳のときレオポルト・アウアーの招きでペテルブルク音楽院に入学、アウアーのロシア時代の最後の弟子の一人となる。ロシア革命により1917年にアウアーがノルウェーに脱出してしまうと、キエフに戻り、ウラジミール・ホロヴィッツと知り合い、意気投合し、しばしば共演するようになり、1925年には西ヨーロッパでの演奏旅行も一緒に行なった。この頃にはウジェーヌ・イザイの門も叩いている。1929年にストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団によりアメリカ・デビュー。ついにニューヨークに居を構えるが、たびたびヨーロッパで演奏旅行にとり組んだ。

しばしば20世紀の傑出したヴァイオリニストのひとりに数えられており、ロマン派の作品ばかりでなく、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品の解釈で知られた。多くの協奏曲のために独自のカデンツァを作曲しただけでなく、ヴァイオリンのために多くの編曲を手掛けている(中でもショパンの夜想曲の編曲は有名)。オリジナル作品では、パガニーニの主題による無伴奏ヴァイオリン作品≪パガニーニアーナ≫が近年とりわけ注目を浴びつつある。1975年にはグラミー賞を受賞、1968年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。

傑出した超絶技巧の持ち主ではあったが、それを前面に押し出す演奏には消極的だった。むしろイザイを通じて身につけた、歌心と美音を尊重するフランコ・ベルギー楽派の優美な演奏スタイルが際立っている。そのためしばしばミルシテインは、「ヴァイオリンの貴公子」と称される。
フリー百科事典「ウィキペディア」よりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3

彼の演奏はすばらしいものだが、常に先生について学ぼうという姿勢が強かった。
著名な先生、イザイに教えを乞いに行った時、イザイから「君に教えるものは何もない」と言われたそうだ。

アルゲリッチは別格として、凄い人はまあ、謙虚であると感じる。

■きびしさ

「きびしい」ということが、言葉ではわかっても実感としてわかるかどうか。

そういう意味では、私は子どもたちを引き連れてコンクールに出るのは好きである。

ふりかえってみると、演奏の結果の大半は自分の責任と感じる。
昔の録音を聴いてみると、自分の未熟さがわかる。

自分がもっといい指導ができていたらと、反省することしきりである。

それにしては、子どもはよくやっている。もっと褒めてやったらよかったのにと思う。

これは、そういう自分の態度を云々ということでなく、指揮をするという仕事が、ただ「やれ、やれ」と子どもにしかけるだけでなく、自分も責任の一端を担ってステージに上がるということがいいということである。

「私たち、指揮者がダメだから賞に入らなかったんだよ」

って、言われている人もいた。

私は面と向かって言われたことはないが、そういう思いでいた子どももいるかも知れない。

運動部の先生も、試合ではそういう思いがあるのだろう。

先生は蚊帳の外で「言うだけ」でなく、自分も火の粉をかぶる必要がある。

言うだけで、自分は何もやっていないのを見ると

「そりゃそうだけど、あなたは何ですか?」

という思いが聞き手に伝わった時、そこに「世間知らず」の文字が浮かんでくるのではないかと思う。

まして、民間では会社の浮沈をかけた勝負所を経験している場合があって、それを、まるでわかったような批評をする人を見た時、やはり「世間知らず」になるのだろう。

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posted by edlwiss at 21:59 | Comment(5) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
 管理人様が教師の経験がながいから、先生を事例に論旨を進めているのだと良く分かりました。私が会社で40年、幾つかの社外プロジェクトでも20年、その他いたるところで感じていたことをまとめられたように思えました。
 先端分野はあっという間に陳腐化。大学の科学分野の先生や情報メディアの事業分野です。担当の方々は嫌でも、過去の知見を捨てざるを得ません。
 一方、大学も言語学や哲学や倫理学は歴史的な考え方を研究するのが大事。だから、新しい考え方になかなか柔軟に対応できないのでは。
 学校もスパンを2000年とするか、300年とするか、100年とするか、この10年とするかで立場が変わるのでしょう。
 管理人様は学校と言うドメインで、情報技術の最先端を担当してきたのでは。しかも戦後の変革の真っ只中で。そして音楽と言う、ギリシャ時代や中世、そして現代と変革の、しかもながい歴史の芸術を。だから革新的であり、しかも哲学的であり、筋が通っているのでは。勝手に決め付けてすみませんでした。
 とにかく、今日も感服です。
Posted by tsuguo-kodera at 2012年03月22日 05:16
>時には子どもの作品からヒントを得ることもあるだろう。

子供を愚者と言っては失礼だろうけれど
 賢者は愚者からも学べる 賢者振るものはそうではない
とか、

>「私の前にも後にも、先生なんていません」

前にいないというのは分かる様な、後にいないというのはどういう意味なのかな?。
日本語の先生は先に生まれた人、先行く人、とかいう意味だろう。
あちらの「ティーチャー」という言葉の原意は何なんだろう、知ってます?。

>アルゲリッチは別格として、凄い人はまあ、謙虚であると感じる。

ものに謙虚、音楽には貪欲ってことでしょう。
やぶ睨みすりゃー強突張りさ。(><)\(--;)バギッ
Posted by 真愚 at 2012年03月22日 20:59
真愚さん、こんにちは。

「前にも後ろにも」というのは、前とか、後ろとか、単語そのものに注目するのではなく「前もない、後ろもない」つまり「どの方向にもない」から「全くない」という意味です。

「弘法も筆の誤り」という言葉がありますが、弘法とか筆にとらわれないで、全体としてどういう意味かを捉えることが大切と思います。
Posted by dolce at 2012年03月25日 17:05
日本で先生というのは師範という意味ではないでしょうか。
師範というのは手本という意味で、手本が悪いと学ぶ生徒も良くはならない。
それ故に日本では先生に対して過大な要求が有る。
町中を酔っぱらいでもしたら「先生のくせに」と咎められる。
電車で間違って痴漢行為でもしようものなら厳しい処罰が科せられるし、
疑われる事さえ罪になる。火のないところに煙は立たぬ、
先生として行動に問題が有ったのだ人相が悪いのだと痛くもない腹をさすられる。
それは手本に祭り上げられてるからでしょう。
あちら欧米の先生は多分ちょっと違うと思う。
あちらはキリスト教圏、神の前に平等の思想が有る。
子供も個として尊ばれ自立心を教わり、
自ら勉強する意識が日本よりは強いのじゃないかな。
日本で言うところの先生は神や聖書で、あちらの先生というのは日本で言うところの
上級生や上上級生だと思われる。それ故日本ほど先生に対する要求が高くない。
先生という名の同じ生徒だから多少悪くても気にならないだろう。

>「あなたは、ピアノがお上手ですが、どんな先生から教わったのですか?」
>と聞いたら
>「私の前にも後にも、先生なんていません」
これ謙遜なんかじゃなくて寧ろ傲慢に近いと思う。
ただ傲慢と言うよりは自分が一生懸命頑張って上手になったのだという
自負心が強いのだと思う。謙遜なら「みんな」と答えるものだ。
あちらは自立心自負心を大切にする土壌が日本より有る。
「教える」の主体は先生で生徒は客体、「学ぶ」の主体は生徒で先生が客体。
先生主体で問われたから無いと答えたのだと思うが、
教わった先生はいないけど学んだ先生はいるだろう。
「誰から学んだのですか」と問われればきっと「みんな」と答えたのじゃないかな?。
Posted by 真愚 at 2012年03月26日 22:51
真愚さん、今晩は。

今回のコメントは大変参考になりました。

アルゲリッチの言葉は、全く謙遜じゃないと思いますよ。

だいたい、演奏にその性格がもろに出ています。

並の人なら、そんなことを言ったら、軽蔑されるし、顰蹙(ひんしゅく)をかうでしょう。

そんな感じを抱かせないほどのピアニストなんですね。

彼女はショパン・コンクールで審査員をやったことがありますが、彼女が1位につけたのは、マリッツオ・ポリーニでしたが、審査の集計で2位になってしまいました。

それでアルゲリッチは「彼が絶対に1位なんです」と言って怒って帰ってしまったという話もあります。

そういうことが、かえって有名にしてしまう凄さがあるんですね。
Posted by dolce at 2012年03月26日 23:11
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