2012年03月25日

世間知らずと言われる感覚

ryorinozyosiki.jpg「世間知らず」という言葉にとらわれると、ものごとをどれほど知っているかという、知識の面を考えてしまうように思います。

では、知識が多ければ世間知らずと言われないのかというと、そうとも思えません。

それは、前述した姿勢に関わってくることでもありますが、最も世間知らずと皮肉を込めて言われるような時は、知らないのに知っているように感じられる場合ではないかと思うのです。

本人は、まるで全てのことを知っているような口ぶりで話すことがある。

だいたい、知識のある人は、あまり断定的な言い方をしないように思います。

それは、ソクラテスの「無知の知」にも通ずるところがありますが、ものごとは勉強すれば勉強するほど、謎が深まってくるし、自分の知識や思考力のなさを感じるようになると思うのです。

そうすると、人は自ずと謙虚になるような気もします。

最近は中高生ぐらいの若い人の活躍が目立ちます。

スキーのジャンプで優勝した高梨沙羅さんも、中学生です。

世界大会で優勝しているのです。

世界大会で優勝というのは、もう上はないわけですが、インタビューには少しも得意そうな様子はありません。

こういうところを見て、私も見習わなければと思いました。

先生と言われると、何でも説明できなければいけないと思うのでしょうか?

先生と言われると、自分の言うことは何でも説明になると思うのでしょうか?

あるいは、自分はそういう領域に達したと思うのでしょうか?

人に何かを教える立場、つまり先生なわけですが、そういう人の中にはプライドを気にする人がいます。
質問をすると、プライドを傷つけられたと思って怒る人もいます。

そうすると、聞く側は黙って聞くだけという姿勢になってしまいます。

それは、先生自体をますますダメにしてしまうと思うのです。

自分がもっといい先生でありたいと思えば、もっと人から学びたいと思うはずです。

そういう姿勢であれば、相手は素朴な疑問を投げかけてくることもあります。
それが、とても貴重な質問であったりします。

人が何人もいるということは、何人もの見方があるし、何人もの考え方があるわけです。

だから、私は教える立場に立った時「私はここまで勉強してきました。それをきっかけとして、みなさんの前に披露しますから、みなさんも持っているものを出して、みんなで目標に向かって行きましよう」という態度で接しています。

抽象的なことばかり言っていると、空想や妄想の世界に突入してしまいそうなので、具体例を挙げてみたいと思います。

例として、私の好きな音楽を取り上げてみます。
断っておきますが、私にとって音楽は「趣味」であり、よく音楽の先生と言われたりしますが、それは他人が勝手にそうしているだけです。

しかし、趣味だから「無知でいい」とか「下手でいい」という逃げ道を作るつもりはありません。
指導的立場に立ったり、演奏する立場に立った時、そういうのは誠実さを欠くと思うからです。

学校では合唱を、クラス作りや生活指導にも役立てようとする考えもあります。

この時、合唱のどういうところが、クラスづくりに役立つのか、生活指導になるのかは合唱そのものをどれだけ理解しているかということは大切と思います。

本で読んだり、誰かから聞くということでも知識は得られますが、それだけではどうしても大切な部分が欠けます。

実際に合唱経験を持つということは必須でしょう。

自分がメンバーの一員として参加する。

指揮をしてみる。

それも、ただ「やる」だけでなく、いろいろな場面で。

つまり、合唱団の一員としてコンサートに参加する。

コンクールに出てみる。

指揮者となって、団体をまとめてみる。
できれば、コンサートやコンクールで指揮者をやってみる。

そうすることで、それぞれの活動のいいところ悪いところがわかるわけで、それは、実際に経験しないと絶対にわからないものだと思います。

言葉ではいえないものがあると思うのです。

言葉で表せないものの経験をしないで、いかにもわかったようなことを語るので、経験者からは「世間知らず」という感覚を持たれるのではないかと思うのです。

そういう意味では、世間知らずというのは軽蔑の言葉と言えるかも知れません。

「世間知らず」の言葉の中には「常識を欠く」という感覚も入っているような気がします。

合唱で言えば「合唱をすることの世界における常識」です。

だから、教師が世間知らずと言われやすいのは、読んだ知識、聞いた知識だけで、一般社会人の中で生活をしたことがないために、言葉ではわからない感覚がわからないからではないかと思うのです。

私は数年前、不意に市のボランティア団体のとりまとめ役をやらせられたことがあります。

ボランティア団体ですから、大人なら職業を問わず参加自由でした。

いろいろな職業の人がいました。

しかし、小中高の先生はいませんでした。大学の先生、警察官はいました。

他のボランティア団体を見ても、小中高の先生はいません。

どうも、小中高の先生はこういうところには参加しないようです。

社会を知るにはよい機会だと思うのですが。

団体で行動するということは、個人がわがままを言っていては、ことが運びませんから、そういう意味では合唱はクラスづくりや学校全体のまとまりを作るにも役立つでしょう。

しかし、合唱をやればまとまりができる、なんて単純なものではないと思います。

スポーツでもそうですが、楽しむにはあるレベルの技術が必要です。

そのレベルがないのに、やろうとしても、そもそも人はやる気がしないのではないかと思います。

合唱ができるにも、それなりの最低限の能力は必要で、まして歌が嫌いであったりしたら、教師が先行しても嫌われるだけと思いいます。

逆に力をつければ、強制の必要もなく、それはいいという方向になるでしょう。

吹奏楽やオーケストラでも同じです。

ある中学校は、全国大会優勝を目指しているあまり、音階もそこそこで大曲をやっていました。
小学校でもそういう学校がありました。

毎年、全国一位になっているのに、中学校へ進むと、音楽の部にはほとんど入部しないということが、音楽関係者の中ではよく知られていました。

私の実践ではそういう目立つ活動はありませんでしたが、不思議なことに子どもは音楽が好きになりました。
こう言うと、自慢しているように思われるかも知れませんが、私自身が謎と思っていることです。

夏休みほとんどを練習に費やしてしまって、かわいそうなことをしたとか、自分にもっと指導力があればといつも思っていました。

ただ、ひとつだけ言えることは、私自身、音楽が好きで全く趣味の延長であり、今もなお一日たりとして音楽が頭にないことはありません。

繰り返しになりますが「実践してみないと、絶対にわからない感覚があり、実践がないにもかかわらず、いかにも知ったように語ることが、世間知らずと映る」ということを言いたいのです。

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posted by edlwiss at 17:44 | Comment(1) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
 今日もも心に響くブログをありがとうございました。また父の言葉を思い出しました。父は旧制高校の数学の先生、口癖は「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」でした。旧帝大受験の神様とも生徒から言われていたこともあったようです。
 新任の教室で、難解な問題を毎日変わりばんこに生徒が質問してきたそうです。教室で直ぐ解いてあげて、一ヶ月経ったら、何でも素直に聞く生徒ばかりになったそうです。
 父は身体を壊し、入院し、「また復帰した、宜しく」と生徒に挨拶した夢を見たそうです。
 私も最近、夢を見ます。学校で困ったことがあると、昔の会議で同僚を怒鳴っていた夢をみました。成功したような仕事の中で部下に「ご苦労さん」と言っていました。
 最近、学校も「潮時」と父が言っているように感じています。何となく泣けてくる今日の記事でした。ありがとうございました。
Posted by tsuguo-kodera at 2012年03月26日 05:02
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