2012年08月15日

教育に対する誤解

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学校教育についての話です。

義務教育に対する誤解

しばしば、学校は学力を保障しろといういう人がいます。

しかし、日本の義務教育制度は就学者にある一定の学力を保障するものではありません。

それは、年数主義という方法をとっているからです。

年数主義とは、一定の年数を経たら進級させるというものです。

わかりやすく例に例えると、映画館に行くことを想像してみるとわかりやすいと思います。

映画館が学校であり、観客が児童生徒であると言えます。

映画館の責任は、予定の映画をまちがいなくきちんと上映することです。
それ以上の責任はありません。

観客は間違いなく上映されている映画を、見ているとは限りません。

観客が上映中に眠っていて、映画を見なかったとしても、それは映画館の責任ではありません。

同様に、学校では決められたカリキュラムに従って、きちんと教育活動を行う責任はありますが、児童生徒が教育を身につけたかの責任はありません。

もし、各学年の履修内容をどの程度身につけたか、学校が責任を持たなければならないとしたら、義務教育についても落第制度を設けなければならないでしょう。

義務教育は15歳までの9年間と定められています。

だから、特別の事情がない限り、この年限を超えると教育は受けられません。

誰のための教育か?

教育は各個人のためのものでしょうか?

そう単純に言い切れるものではないと思います。

教育基本法というものがあり、これに準じて教育が行われることになっていますが、見方によっては、これは理想、建前とも言えます。

・教育の二つの側面

(1)個人の自立のため

動物も子育てをして、子が自立するようにめんどうを見ます。

ここは、親のためではなく、純粋に、子どもが小鳥立ち出来るように世話をするわけです。

多くの動物に本能的に備わっているものでしょう。

人間の場合、やはり、親は子どもが自立できることを願って教育することは純粋に美しいことであると言えます。

しかし、子どもを育てることが将来、親のため家のためと考えて教育する人もいます。
ここが、人間の場合、動物と違うところだと思います。

(2)国家のため

教育は国家のためという側面を持っています。

なぜ、国家のためなのか?

わかりやすく言えば、国家は税金が欲しいわけです。

国家にとっては、税金を納めてくれる国民がいいわけです。

裏を返せば、国家にとって税金を納めない国民はいらないわけです。

これは、有能でない人間は落伍して野となれ山となれ知らないという側面があります。

国家は国民のためにあるのか、国民が国家のためにあるのか、ここは為政者の心次第というところがあります。

国家は国民を守らなければならない。これが民主主義であるわけですが、表面上は民主主義の看板を掲げながら、本音は国民からの搾取を考えているから、しばしば、矛盾したことが表面化すると言えます。

野田総理の心は「国民のための国家」なのか「国家のための国民」なのか、本心は誰にもわかりません。

教師も、口では子どものためと言っても、本心はわかりません。

私が天邪鬼なのか、あまりにも頻繁に子どものためを口にする人は、かえって疑わしく感じてしまいます。

それは、子どもの教育に携わるとき「自分のやっていることは、本当に、子どものためなのかどうか」と自問自答して、心が痛むからです。

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posted by edlwiss at 12:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題
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