2013年01月09日

体罰は黙認されている

situke.jpg今回の生徒自殺事件は、本当にかわいそうだと思う。
いや、かわいそうでは済まされない。何とも表現のしようがない。
本人が誰にも相談できなかった。あるいは誰も手を差し伸べることができなかったのか、非常に残念だ。

はじめにお断りしておくが「体罰は黙認されている」は私の体験の範囲の話である。
私には日本中を調査する力もないし、特別な能力(超能力)を持ち合わせていないからである。

私の経験の中で、体罰について強い記憶を持っているのは、私が学年主任になったばかりの時であった。

学年集会の時のことであるが、私は先生方が体罰などしているとはとても思えなかったのだが、生徒たちに向かって「もし、先生が体罰を行ったら、理由を問わず先生が悪い」と言った時、生徒たちから歓声のような声があがった。

私は意外な反応に驚いた。

先生の中には、苦虫を潰したような表情の人もいたようだ。

私は改めて、この先生たちはとても体罰をするような人たちではないと思っていたのに、反応の大きさに、考えを改めざるを得なかった。

しかし、先生たちは私の気持ちを汲んでくれて、以後、体罰を行うようなことはなかったと思う。

学年は、何だか明るくなったような気がした。
先生たちも、肩の力が抜けたようで、体罰などなくても指導はできるということを実感していったように思う。

■指導の手段としての体罰

なぜ体罰を行うのだろう。

それは、先生が生徒を強制的にある方向に持っていきたいか、よほど気の短い人で、気に食わないことがあるとすぐ感情的になるからだと思う。

しかし、指導の手段ということを考えると体罰は手段とは言えない。
指導法として体罰をあげているものを見たことがない。

それは、体罰によって目的を果たすというのは、違法だからという理由より、指導者として情けないと感じる。

自分の思うようにしたければ、手段を選ばずでいいのかと思うのである。

また、体罰で目的を達したとしても、それは生徒の自主性を高めた結果ではなく、体罰による怖さにより動いたものではないか?

私は、生徒をやる気にさせる、つまり自主性を高めて成果をあげる教師がすぐれた教師だと思っている。

体罰による指導は恐怖政治のようなもので、怪我の恐れもあるし、今回のできごとは最悪の事態だが、教育としてみた場合、体罰を解決の手段として教えているようなものではないかと思うのである。

結局、体罰が手っ取り早い方法なのだとか、体罰を利用するのも悪くない方法なのだと教えているようなものではないか?

そう考えた私は、体罰を手段にしない。

体罰を使わなければ指導できない人は情けない。

困ったとき体罰を使う人は、単純で思考力がない。

などと考えるようになった。

さらに、私が体罰を嫌うのは、体罰を受けた時の子どもの顔である。

笑顔は好きだが、その対極としてあの子どもの表情は見たくない。

犬や猫などのペットも、叩かれているかどうかはわかる。

人が手をあげるような動作をすると、すぐに耳を伏せたりして警戒のポーズをとる。

そういえば、生徒の中にも強く叱られることがあると、両手で警戒のポーズをとる者もいた。

叩かれた経験があるのだなと思った。

というわけで、体罰は法律で禁止されているせいか、表面上は「していない」ことになっているが、体罰の実体を知っていても黙認されていることがあるように思った。

だから、私は中学校などに指導に行った時、はじめに「私は体罰はしない」とわざわざ宣言することにした。
そして「万一、そのようなことがあったら、どんな理由であっても先生(私)が悪い」と言っている。

だが、吹奏楽の指導でも体罰を用いて指導する人の名前が出てくる場合がある。
相当に酷かったのだろう、訴訟寸前まで行った話も聞いたことがある。

■体罰を使わなければ指導できないのか?

殴る人には、犬や猫でも警戒心を持つように、子どもも警戒心を持つのだろうと思う。

私はそういう警戒心を子どもに持ってもらいたくないので、師弟の関係であっても、努めて、人間としては対等であるということを、言葉より態度で示すようにしている。

これも、子どもの自主性を育てたいからである。

また、恐怖政治による指導は限界があり頭打ちになると思っている。スポーツでも何でも、本当に強いチームはメンバーの自主性が高いと思う。

オーケストラでも、名指揮者と言われる人は、楽員が恐れている。怖いと言う。
それは体罰が怖いのではない。
名指揮者は博識であるし、耳がよいので、練習不十分でごまかせばすぐにバレてしまうからである。

すごく人気の高かった、カルロス・クライバーはおもしろかった。
例にもれず、名指揮者で、その意味では恐れられていたが、彼は下手な奏者がいると叱るのではなく「すみませんが、そこのところは、もう少し私の意図に近くしていただくとありがたいんですが」と、自分が下に出て、そのあげく、その奏者をすっかりその気にさせてしまう。

怒って、罵倒すれば相手は萎縮してしまうだろう。そうしたら、ますます悪くなってしまう。
だが、多くの人は感情に任せて怒りをぶつけてしまう。

そのことを思うと、カルロス・クライバーは下手な人も上手くしてしまう天才指導者だと言える。

■少しぐらいの体罰はいいと言う人

体罰とは衝撃の強さではないというのが私の考えである。

「軽く頭を叩く程度のことは許される」と言う人がいる。

しかし、私の考えでは、軽くであろうと動機いかんでは体罰になると思うのである。

逆に、怪我をしたり(ひどい場合は骨折もある)しても、体罰にならない場合がある。

例えば、柔道の試合をして怪我をした場合、これは体罰ではない。

つまり、衝撃や怪我の程度が体罰の基準になるのではない。

では、何が体罰か?

それは、心の問題だと思う。

どんなに、軽く叩いても、宿題を忘れたからという理由だったり、掃除を怠けたりなどの理由で叩けば、それは体罰である。

だから、受ける側の心の衝撃の問題であると思う。

小さいから問題にならないのではなく、目標に達しないから殴るというような理由で体罰を行った時、受ける側が納得できなければ、どんなに小さい体罰でも心の衝撃は大きいからだと思う。

しかし、単純な人は衝撃の強さで、体罰か体罰でないかの境目があると思っている

■校長は児童・生徒に向かって、体罰をした人は理由を問わず悪いと言うべき

体罰に関して、校長は曖昧な態度をとるべきではない。

職員会ではもちろん、全校集会では、体罰は誰であろうが悪いと言うべきである。
校長の体罰は絶対許さないという態度を伝えるべきである。

■体罰は反則である

高校野球では、しばしば生徒同士の暴力事件があって、甲子園出場辞退ということがあった。

生徒同士ではなく、指導者の体罰も出場資格剥奪の条件にすべきである。





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posted by edlwiss at 22:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
 私事です。中学も高校も大学も野球部に入部しました。全部、1年そこそこで退部しました。ある日突然自主的に退部。何時でも帰って来い、と言ってくれた先輩は何人かいましたが、二度と活動に参加しませんでした。
 自分でも理由は良くわかりませんでした。今は、色々な理由が考えられます。一番の理由は、自惚れていたから、すぐレギュラーにしてもらえると思っていたからかも。しかし、グランドキーパーばかりさせられて上手くなれませんでした。嫌気が差していましたが、同級生に迷惑をかけたくなく、辞められませんでした。
 そこそこ手抜き、先輩に可愛がられるように格好だけ、部活の優等生のふりをしていました。そんな自分が次第に嫌いになって行きました。嫌いな自分になるのが嫌で、退部の申し出にパンチを幾つか頂くかもと心配していました。ある日決断。申し出。すんなりと、拍子抜けするほど簡単にやめられました。
 嫌いな自分になると思えた最大の理由は、叱咤激励する、時に腕力を使う先輩がだんだん受け付けられなくなったからかも。ビンタしたり、正座をさせ、意見する、まじめすぎる先輩。その無理難題に正面で調子を合わせ、裏で反対、正論を言う同級生を見るのが大嫌でした。
 私は個性尊重教育温室育ち。体罰は大嫌いでした。小学校で怒られたのは2回だけ。体罰ゼロ。学校一、二の乱暴者だったのに。
 定年となり、非常勤講師となり、体罰の現場を見たことはありません。でも、嘘か本当か、体罰の自慢をする場かな先生は何人か知っています。見るのより辟易としていました。
 修学旅行の甲板の上で海に叩き込むといえば、誰もが大人しくなる、校舎の後ろでシバイテやれば、乱暴者もいちころなどと自慢。バカじゃないか、と私は思っていただけでしたが。
 一番呆れた自慢は、校長など温泉旅館で接待すれば、幾らでもコントロールできると自慢していたこと。生徒も上司もまともには取り扱ってくれない未熟者と白状しているだけなのに、可哀想な男だと見ていました。でも、次第に分からなくなってきました。常識が通じない所があるからです。
 体罰をする先生は熱心であるのかもしれませんが、未熟でしょう。社会でも通用しないのでしょう。況や会社では、です。
 体罰は熱心だからするのでなく、結局、デモシカだったからするのだと私は見ています。
 ちなみに私は中学2年まで喧嘩屋。殴った回数も殴られた回数も半端ではありませんでした。でも、中学3年から、何回か殴られたことがありますが、平然と、相手の理不尽を享受してます。
 今でも子供や孫には拳骨をあげています。正しい拳骨には信念と論理と実の子供が条件でしょう。
Posted by tsuguo-kodera at 2013年01月10日 07:27
tsuguo-koderaさん、いつも有益なコメントありがとうございます。
tsuguo-koderaの体験からのお話は、生々しく感じます。

>体罰をする先生は熱心であるのかもしれませんが、未熟でしょう。

私もそう思います。

一流と感じる指導者(監督)のもとでは、選手が自らの「やる気」で取り組んでいるように思います。

私はしばしば「指導とはロケットに火をつけるようなものだ」と思っていますし、人にもそう言ったりします。

子どもに一旦やる気を出させると、むしろブレーキをかけることに力を入れなければならなくなります。

例えば、私が「やり過ぎだからやめろ」と言った生徒は、夜中の3時半まで練習していました。
彼は学校の勉強の方は、もちろんおろそかにしていませんでした。

いや、そんな彼がAクラスの高校がゆうゆうと受かる成績でしたから、他の生徒たちはいったいどんな勉強をしているのだろうと思いました。

例の学校では、体罰が表面化し3ヶ月の停職の処分を受けた先生が再び復帰してからも、また体罰を行なっていたと報道されています。

体罰を指導の手段としている人は、その人から体罰を奪ったら、指導の方法がないのかも知れません。

ある私立高校では、対外試合の成績が指導者(先生)の給料に反映すると聞きましたが、本当にそうなのでしょうか?

Posted by dolce at 2013年01月11日 00:09
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