2013年01月12日

愛を知らない人たち

mushonoai.jpg■生きることはプレッシャーを感じることか?

人は窮屈な思いをして生きていると考えている人がいるようだ。

その窮屈とは、社会のきまりだ。

きまりがあるから、自分には自由がないのだと思っているらしい。

では、こういう人は全く自由な世界があるとしたら、何をしたいのだろう?

そんな世界はないと思う人がいるだろうか?

私は空想を言っているのではない。

昔、自分はもっと自由に暮らしたいと考えて、1000万円でフィリピンのある島を買い取って、そこで暮らした人がいた。

自分の島だから、何のきまりも考えることなく好き勝手に暮らせるようになったわけだ。

もっとも島の外は、国際的な決まりがあるわけだが。

この、窮屈な思いをして暮らしていると考えている人は「人は自分のことしか考えない」「窮屈だがきまりを守らなくてはいけないから、人は悪いことをしない」と考えているようだ。

では、例えば交通法規は窮屈か?

交通法規のためいつもプレッシャーを感じて生きているのか?

私は全然そんなことは感じない。

車は互いに左側通行ということで、私は安心して左側を走る。

交通法規があるから安心なのだ。

他人と共存するなら、きまりを作って互いに守るようにしなければならない。

それが窮屈で嫌なら、島を買った人のように、自分も無人島で暮らせばよい。

■人は自分のことしか考えないのか?

人は自分の都合や欲のためだけに生きていると考えている人がいる。そして、悪いことをすると言う。

しかし、それも島に自分しかいないのであったら、自分のためであろうとなかろうと、また悪いことと言ってもどちらも意味がない。

だから、自分のためとか悪いことというのは、他人がいるから意味のある言葉になる。

そして、他人と共存している今の社会では、人のことを考えないとか、悪いことをする人も確かにいる。

しかし、みんながみんなそうではない。

■愛を知らないから人は利己的であったり、悪いことをすると考える

檀家の集会で会食をした時、1歳を少し過ぎたぐらいの女の子を連れたお母さんがいた。

女の子は1人になると、お母さんを求めて泣きはじめた。

すると、大きな男の子が抱き上げてやった。

それでも、女の子はいやいやをして泣き止まなかった。

それで、母親が代わって抱き上げると、すぐに泣き止んだ。

女の子は母親は見えているのに、母親に抱かれたかったわけである。

母親の愛を求めているのである。

乳児、幼児は母親に愛を求め、それが満たされることで人に対する信用を高めていくのだそうだ。

そういう時期に、求めた愛が満たされないと、逆に人を信用しない性格が形成されると言う。

そうして育った人は、考えが常にマイナス思考で、他人の幸福に嫉妬するようになるらしい。

たくさんのブログの中にも、常にマイナス思考という人がいる。そして、他人の幸福を願わないどころか、まるで失敗するのを喜んでいるようであったり、人はきまりで縛らない以上、悪いことを考えると思っているようでもある。

こういう人は、生育歴、生活歴の中で人から愛を受けたことがなく、常に裏切られてきた経験しかないのかも知れない。

私事だが、私は生まれて間もなく両親が育児放棄をしてどこかに行ってしまった。

そういう私を、見るに見かねた女性が私を拾って育ててくれた。

躾の行き届いていない私に相当苦労したのだが、全身全霊を込めて私に愛情を注いで育ててくれた。

私は、子どもの時は何もわからないので、してもらうことばかりを当たり前のように享受し、自分のことばかり考えていた。

aisinasai.jpg
小学校2年生ぐらいの時、彼女と昼食を食べていた時のことである。

おかずは味噌汁とコロッケ1個であった。

それでも、私はコロッケが大好きなので、嬉しい食事だった。

食事の途中、彼女は自分のコロッケを挟んで、私の皿に移した。

私はびっくりしたが、大好きなコロッケが2つになったので、もう嬉しくてたまらなかった。

私は嬉しかったのだが、彼女のコロッケはなくなってしまうのに、なぜ私にくれるのだろうと、それが不思議であった。

子どもの私には、自分のおかずがなくなってしまうのに、人にそれをやってしまうという気持ちがわからなかった。

しかし、自分で思い返してみると、子どものころはしてしもらうばかり、欲のかたまりのようなものだが、大人に近づくにつれ、人に与えて、人が喜んでくれるという幸福感がわかるようになるのだと思った。

もちろん、それは見返りを期待するものではない。

いわゆる無償の愛である。

私を育ててくれた女性は、女手一つで、小さな雑貨屋を営み高校、大学と進学させてくれて、自分のものは何一つ買わず、自分のすべてを私に尽くしてくれて、年をとってガンで亡くなっていった。

「親孝行したいときには親はなし」

という言葉が身にしみる。

私は今「お前は人の幸福のために尽くせ」と言われているような気がする。

無償の愛で他人を幸福にすることの喜びを、彼女は教えてくれたような気がする。

だから、他人に嫉妬したり、まるで他人の不幸を喜んでいるかのような文、他人は信用できないのだとか、人は見えないところでは悪いことをすると思っているような文は腹立たしい。

恐らく、人からの愛を知らないからなのだろう。こういう人が最も不幸な人なのかも知れない。

私は生徒たちからもいっぱい愛をもらった。もう一生分に余るほどの愛をもらったと思う。

時々行われる同窓会で、その暖かさを感じる。

■世の中には悪いことをする人はいるが

人は成長するに従って、自分だけの世界から、他人の幸福を考えられる人(すなわちそれが大人だと思うのだが)になって行くものだと思う。

しかし、どういうわけか、発育不良の苗のように、大人になりきれない人がいるのかも知れない。

施設の子どもたちに匿名で寄付をする人もいる。

子どものような人には「人に物をあげてしまって、何がいいのか」と思うのかも知れない。

他人の幸福を喜ぶ(それも無償で)ということが理解できない、未だに子どもの人、愛を知らない人は不幸だと思う。

私の住んでいる隣の人は「田舎へ行ってきましたから」と言って野菜をくれたり「天ぷらを揚げすぎてしまったので」と言ってもってきてくれます。
私はすごく幸せを感じます。そして、私も人に何かをしなければと思います。

ユーゴーの「レ・ミゼラブル」ではパン一切を盗んだため刑務所に入れられ、すっかりすさんでしまったジャン・バルジャンが司教の愛によって、突然、人が変わったようになり人々から信頼され市長にまでなります。

私は、人は本来そうなのだと信じています。





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posted by edlwiss at 13:19 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
 涙が出てくる今日の記事でした。ダメな男だったと思うことばかり、の私の今まででした。しかし、それらは他人様に開示すべきものではありません。棺桶に涙の記憶を持っていくつもりです。
 後悔先に立たず。だから前だけ見て粘り強く歩くしか私はできません。今日もありがとうございました。
Posted by tsuguo-kodera at 2013年01月12日 17:50
tsuguo-koderaさん、こんにちは。

>棺桶に涙の記憶を持っていくつもりです。

棺桶のことを考えて、暮らすことには賛成できません。

年配者の強みは経験です。
若い人は「これから」という強みがあるかも知れませんが、経験については逆に弱みです。
経験を経てきたからこそ、一日がこれまでより中身の濃いものであると思うのです。

叔父の葬儀に主席した時、お坊さんが「老少不定」というお話をされました。人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと。人の生死は予測できないものだということだそうです。

今日も9歳の子どもが、生活苦で祖父に殺されたニュースがありました。なんともやりきれないニュースです。9歳で人生を終えてしまったのです。
私がこんなことを知っていたら、自分の食事を抜いてでも助けに行きます。

tsuguo-koderaさんの、これまでの貴重な人生経験を若い人に伝えてほしいと思います。

生意気なことを申しました。

今後ともよろしく、お願いします。
Posted by dolce at 2013年01月15日 15:53
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