2013年01月13日

それでも体罰をしたい人

■体罰問題は根が深い

人が亡くなっているわけだから大変なことと思うのが、普通の感覚だと思うのだが、これで体罰がなくなるのかというと、事はそう簡単ではないような気がする。

それは、何人かの指導者たちと、これまでに会ってきた私の印象から言うことである。

未来のことは予想になるが、根拠のない予想(妄想)を言うわけではない。

もちろん、体罰はなくならないのではという私の予想が外れることが、最も好ましいとは思う。

指導時に体罰を用いるという人の中には「殴るしかない」という強い信念を持った人がいる。

そういう人は「体罰をしないなんてきれいごとだ」と思っているのだ。

中には、短気のためつい殴ってしまうという人もいて、その度に反省している人もいるだろう。

しかし、体罰がなくならないという一番の問題は、前述の「強い信念」すなわち、その人とってはまるで指導法の哲学のようになっていることだ。

校長は、職員会では「体罰はいけない」とは言うだろうが、それこそ、それが校長の強い信念なのかと言うとどうだろう?

その響きから「そうは言うけど」というものを教師たちが感じてしまうのは、ものごと、本音と建前があるととられてしまいかねない。

■「勝つ」という魅力に勝てない

「体罰をふるってまで勝ってほしくない」と言える校長はどれくらいいるだろうか?

勝つことで、学校の名前が挙がる。新聞に○○学校と出る。時には校長名も出るという魅力に勝てないから、体罰を黙認してしまう。

そこには「バレなきゃいい」という考えが根底にあるのだろう。

だから、記者から「隠蔽ではなかったですか?」と聞かれると「そういうつもりはなかったですが・・・そうとられても仕方がない」と往生際の悪い返事をする。

そういうつもりはなかったではなく「バレなきゃいいと思って黙認していましたが、バレてしまいました」というのが正直な返事というものだろう。

学校は、本来、正しいことを教えなければならないところである。

教えるということは、ただ口で言うだけでなく、実践してこそ「教え」になるものだと思う。

生徒たちは、教師から言われる「正しいこと」は言葉としては了解できる。
問題はそういう教師が、どういう行動をとるかである。

だから、教師が言葉として口に出したことを、教師自らが実践すると、それが生徒たちにとって驚きとなってしまう。
もちろん、それはよい驚きであって、そこから生徒たちは本当に教師を信頼するようになる。

「あの先生は違う」と言う。

これは、教育にとっては情けないことである。

政治家が放映されるところでは、何も文句のつけようのない立派なことを言うが、国民は信じていないのに似ている。

■人間性のマヒ

記者会見の校長、教育委員会の表情を見ていると「生徒一人が亡くなって大変だ」という感じを受けない。

残念ながらそう見えてしまうのである。

教育の場で出世意識が蔓延するのは好ましいことではないと思うが、どういうわけか、本来の仕事、教育を忘れてしまって、大したことはない地位を目指して汲々とする。

そういうことで、心をすり減らしているうちに、人間として最も大切な感情を失っていく。

教育の仕事に携わっているはずなのに、相手が愛情を感じている生徒のはずなのに、涙一つ出ない。

人が死んでもピンとこないのだ。

第二次大戦中、ナチの収容所でガス室に勤めていた、ヘスという男がいたそうだ。
彼は、家庭には妻も子もありよきパパであったそうだ。

ヘスはまじめなサラリーマンとして、忠実に働いていた。
その忠実さとは、ガス室に行っては、言われた通りガス栓を開けることだった。

ガス栓の向こうでは何が起こっているのか、ヘスはもちろん知っていた。
しかし、そういうことには感知せず、いつも忠実に言われたことを実行することで、彼は信用を得ていた。

そして、それが家庭ではよきパパだったのだ。

今時の教育問題は、最も人間としての感性が要求される立場の人が最も鈍感であるということだと思う。

わが子を失った親の気持が、どれほどわかっているのか疑問に思う。

その証拠に、人一人が亡くなったというのに、自分の地位を追われたくないがために、責任を認めようとしないで、言い訳ばかりする。

■校長は体罰教師と心中する覚悟があるか?

私は、校長が、体罰をなくしたいという強い信念があれば、体罰はなくなると思う。

「体罰はないということにしておこう」ということを、校長の態度に感じるから体罰を行う教師はなくならないと思うのである。

校長は体罰を行う教師がいたら、ともに地獄まで行く覚悟をもってもらいたい。

■なぜ体罰がいけないのか

「法律で禁じているから」というのは答えになりません。
なぜなら、体罰はよくないから、体罰を禁ずる法律を作ったのですから。

体罰を容認する人がいますが、その理由を読んでも、よくわかりません。

「言ってもわからない時は」とか、ただ「体罰は必要です」と言っているだけで、納得のいくものではありません。

「言ってもわからない時は」という人に聞きたいのは、それでは「体罰を行えばわかるようになるのですか?」と言うことです。

体罰を行えば必ずわかるようになりますか?

だったら教育は簡単ですね。

あれこれ、教育法を考える必要もないし、教育の研究会も要りません。

いるとしたら「効果的な体罰の研究」という研究会がいいじゃないですか?

体罰を行えばわかるのではなく、体罰が嫌だから、反射的に態度を変えるだけじゃないですか?

教育として一番大切なことは、教育する相手が納得することではないかと思うのです。

言ってもわからないから殴るのは、本当に言ってもわからないのだろうか?

わかっているのに、素直になれないということはないだろうか?

私は、生徒が納得していないと思った時は「じゃあ、一日考えてみてくれ」と言った。

翌日になると「ぼく(私)が悪かったと思います」と、例外なく言ってきた。

これには、はじめ意外に思ったが、例外なくそうだった。

■体罰は指導になるか?

体罰を教育の観点から見たら、法律云々はともかく、解決の手段として体罰を教えていることになるのでは、と思うのである。

体罰は問答無用の力で押すやり方である。

体罰で教わったものは「困ったときは体罰で」ということにならないか?

指導の名のもとに「殴りたい時に殴る」ということにならないか?

体罰という力技というか強行手段は平和的解決ではない。

この延長線上は、自分の思うようにならない時は喧嘩で決する。

さらに、その延長線上は国家と国家の力の争い、すなわち戦争ではないか?

体罰容認の延長先は、戦争容認につながるのではないかと思うのである。

■体罰で指導する人は二流である

本当に強いチームは、メンバーひとりひとりの自主性が高いと思う。

殴られるから、怖いからやるというのは、あるレベルまでは到達が早いのかも知れないが、常に恐怖を感じないとやらないということが中心になってしまうのではと思う。

団体戦と言えども、戦いの場面ではひとりひとりが立場を考えて、頭脳的なプレーをしなければならない。

そうなると、ひとりひとりが自立していないと、きわどい場面ではどうにもならないと思う。

指導に行き詰まったら体罰というのは、そこに体罰しか方法がないという限界があるわけで、指導法の研究にならないので、頭の方は進歩しないと思うのである。





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posted by edlwiss at 14:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
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