2013年05月19日

人間関係の希薄な社会

教育工学の立場からは、人の活動には内部活動外部活動があり、内部活動は直接見ることはできないものであるから、その人の外に現れる外部活動によりその人の内部活動を想像するしかないと言っている。

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このことは、人間関係の希薄な社会においては、人の見方を誤る恐れがあると言えるだろう。

自分の子どもの頃を思い出すと、夕食時に席につくと、親から「どうしたの?」と声をかけられることがあった。
「どうもしないよ」と言うと「いや、何かあったでしょ」と言われた。

「どうしてわかる?」と言うと「顔に書いてある」と言われた。

親には隠し事ができないなと思った。

親は毎日見ている我が子の様子を、関心持って見ている。

だから、少しの変化も見逃さない。

これは、親の愛情がそうしているものだと思う。

愛情を感じている相手の変化には敏感であると言える。

今日(こんにち)では、人間関係が希薄になっていると感じる。

人間関係が希薄ということは、愛情を感じる相手が少ないか、愛情を感じていても薄いと言える。
だから、相手の微妙な変化を発見することができない。

他人の心のの中の活動(内部活動)は決して、直接見ることができないものであるが、その活動の影響は必ず外部活動に現れると、私は思っている。

微妙な外部活動の変化を見つけることができるかできないかは、対人関係の密度と観察力にかかっていると思う。

先日、ある親から「うちの子どもは動物が好きで、うさぎを飼って欲しいと言うんですが」という相談を受けた。

確か、以前、ネコがほしいということで飼ったはずだがと思ったので、そのことを聞いてみた。

私:「ネコのめんどうは、よくみているんですか?」

親:「それが、自分の時間のある時は抱いたりしているんですが」

という話。

私は、動物を飼うということは、子どもにもいいことだと思うが、自分の都合だけでかまったりするだけなのはよくないという意見を言った。

つまり、動物を飼うということは、餌も糞尿の始末も健康も気を配ることができて、愛情があるということであって、自分がかわいいと思った時だけ、抱いたりするのは愛情とは言えないということである。

自分の都合だけで好きだというのは、自己愛であって、本物の愛情とは言えないと思うのである。

近年、家族の間でさえ、愛情が希薄ではないかと感じるようになってきた。

それは、そろって食事をしないというところにも表れているような気がする。

家族とは何か?

一緒に食事をすることであるというぐらい、食事を同席することは大切だと思っている。

いや、大切というより、愛情があれば一緒に食事をしたいと思うはずだろう。

別に特に用事があるわけではない。
そうしなければならないという義務もない。

しかし、そうしたいと思うところが、愛情であり。

愛情があれば、我が子や配偶者の微妙な変化にも気づくはずだろうと思う。

微妙な変化に気づいてくれる人がいないことも寂しいことである。

人は、死にたいと思った時、止めて欲しいと思う段階もあるだろう。
でも、誰も気づいてくれなかった。
自分のことを気にかけてくれる人は、誰もいないと悟った時、非常な孤独感を感じ、このような世界にはいたくないと思うのかも知れない。

そういう時、人は、誰にも悟られず死にたいと決心するのではないか?

しかし、そういう彼や彼女のことを気にかけている人であれば、何か、いつもと違う彼や彼女の変化に気づくと思うのである。

現代は他人のことには無関心で、自己愛が加速しているように見える。
それに加え、自分に対する外部の刺激には敏感であるが、他人の立場には鈍感なような気もする。

自分の都合だけの恋人は、先の、かわいいと思った時だけのペットのようなものではないか。
本物の愛情と自己愛を、間違えないようにしなければならない。





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posted by edlwiss at 10:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育研究
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