2014年02月16日

生きる力を高めるには

以下は文部科学省の「生きる力」の指針となる、学習指導要領の記述である。
新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。
 これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。
 次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。そのような思いで、新しい学習指導要領を定めました。

 
「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力

変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな心、健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切です。 

確かな学力
基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、様々な問題に積極的に対応し、解決する力。

豊かな人間性
自らを律しつつ、他人とともに強調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性。

健康・体力
たくましく生きるための健康や体力。


ikiruchikara2.jpg■教師は実践者

教師は実践者でなければならないという立場から、教師は教育理念や教育目的を実践に移せる人でなければならない。

設計士は家を設計するが、実際に家を建てるのは大工などの職人である。

そういう意味では、教師は教育の職人と言えるのかも知れない。

世の中にはあれこれ理屈を言うが、やってみろというとできない人もいる。

教師の場合、合唱指導をしてくれと言われたら、形式的に指導のようなことをするのではなく、指導後には、確かにその団体がうまくなったと感じさせるものでなくてはならない。

実技をともなうものでは、指導前と指導後では違いがわかりやすい。
しかし、いわゆる実技の教科と言われないものではどうだろうか?
ペーパーテストをやったら、事後では点数が上がっていたということで、成果を認めてよいだろうか?

もしそれでよいと言うなら、市販テストを利用して何回もやってみればよい。
その場合、とりわけ指導技術などというものは必要ないだろう。

■大人は子どもの一生をめんどうみることができない

「生きる力」を実現するための実践を、私は見たことがない。

私は私なりの考えで、実践してきたが「生きる力」というのは、もともと、文部科学省に言われなくても必要なことである。
それが今言われ出したのは、今の子どもたちの生きる力が弱いのではないかという考えともとれる。

学校は自立を促す教育をするところだから、子どもが大人の手を借りなくても一人で生きていけるように自信を持たせるようにしなければならない。

一方、保護者や教師など大人は「いつまでもあると思うな親と金」と昔から言われるように、子どもにも納得させなければいけないが、子どもが大人の手を離れても生きていけるような力を子どもに持たせるように考えていかなければならない。

■子どもはどのようにして生きる力を獲得していくか

昔、教育テレビに「ひとりでできるもん」という番組があった。

子どもが大人の手を借りないで、ひとりで料理を作る番組だった。

子どもは一人でものごとができることで、自信を持っていくと考えられる。

生まれた時、子どもは自身で食事もできないように親の手をわずらわせることが多い。
しかし、成長とともに次第に一人でできることが多くなっていく

一人でできない時は、子どもの行動には何かと制約が多い。
これは、子どもにとって「してはいけない」とか「許可が必要」といったきまりが多いと言える。

これは、別の見方では子どもは大人に近づくにつれ、大人からの制約を離れる、つまり、きまりが少なくなるということだ。

だから、子どもの成長とともに子どもをしばる「きまり」を少なくしていくのが、自然であり教育原理にも沿っていると言える。

中学生の時期は、子どもが大人への脱皮をする難しい時期と言える。
問題も多い時期であるが、この大人へのエネルギーを要する時に決まりで縛るのは、発達段階から考えると非常に不適切である。

この時期にきまりで縛れば抵抗が多くなるのは当たり前と言える。

問題行動を恐れて、きまりで対処するのは教育の放棄であると、私は考える。

問題行動に教師が正面から向き合うことが大切だと思う。

例えば、始業の合図とともに授業を始めるのは当たり前のことで、もし、教師がそれをルーズにしていたら子どももルーズになっていくのは当たり前と言える。

なぜなら、子どもが大人になることを意識し始めた時の模範は教師だからである。

もし、始業とともに授業をしない教師がいるとしたら、そこでは校長が指導力を発揮すべきである。
始めは職員会で、全員に口頭で言ってもよい。
そんなことを文面化するのは姑息なやりかたと言ってよい。

姑息なやり方をすれば、姑息な心が伝わるだけである。
リーダーは大人としての教師を尊重し、心をこめて話すべきである。
心を伝えることは、教育の大切な要素のはずである。

もちろん、校長自ら範を示すのは当たり前である。

■生徒会を生徒のものにすべきである

生徒会のような教育活動の目的は「生徒が自ら行う」ということで、教師の作ったシナリオ通りに生徒が動くことではない。
(活動が成功か失敗かは問題ではない。だが成功を気にする人が多いような気がする。)

もし、教師がシナリオを作ってリモート・コントロールしているような学校があるとすれば、それは子どもの成長の手足を縛っているようなものである。

だいたい、細かな校則を教師が作って生徒に従わせているのは、誰のためかと言えば、生徒のためではなく、教師のためである。
さらに、それは校長のためでもある。

もっとはっきり言えば「校長が退職するまでの期間、何事もないように縛る」わけである。

管理職の心配もわからないわけではないが、校長がそのように小心だと、学校全体が萎縮してしまう。

私が新卒で赴任した小学校では、一時、子どもの自転車による交通事故が多発した。
教頭が職員会で問題にし、自転車乗りを禁止したいと言った。
この言葉に、先生たちは頭を低くして、暗い気持ちになっていた。
静まりかえり、誰も意見を言わないので、教頭の発案が決まってしまうかと思われた。
危機感を感じた私は、生意気にも「そんなことをしたら、子どもたちはかえって危険を感じる能力を失ってしまいます」と言った。

先生たちは頭を低くして、ウンウンと頷いていた。

教頭の顔を見ると、まずいという表情だった。
教頭は自分の案を撤回した。
校長は黙っていた。

後で何か言われるかと思っていたが、そういうことはなかった。
いや、むしろ励ましてくれた感じだった。

素晴らしい管理職で、私はますます学校が好きになってやる気が出てきた。

■つまらないきまりは廃止していく

生徒手帳を一手に引き受けて作っている会社の人の話だと、生徒手帳には学校のカラーが出るという。

きまり(校則)を先生が作っている学校と、生徒に作らせている学校があり、きまりそのものはどちらも大差ないが、生徒が作った学校の方がきまりはよく守られているという。

ここには、指導の大きなヒントがある。

まずは、生徒に作らせてみることだ。
教師は教師で考えてみる。
できたところで、両者を突き合わせてみたらどうか。

非常事態には殿下の宝刀で、教師が上からきまりを押しつけなければならないだろう。
しかし、その時は生徒の「やむを得ない」という心情が大切だ。

私の街では立派な図書館が新築され、設備がいいので高校生たちがたくさん押し寄せた。
ところがマナーのよくない高校があり、その高校では図書館へ行くことが禁止された。

禁止されていない高校もある。
禁止された高校の生徒たちは、恐らくやむを得ないと思っているだろう。

私が小学校に勤務している時、なるべく子どもに判断を任せる例としては、理科の実験の時、実験に必要と思う器具は自由に戸棚から持って行ってよいことにした。
そのかわり、もとあったところにきちんと返すことということを守らせた。

グループによっては器具の多いところや少ないところがあった。
私の意図は、教師がお膳立てするのではなく、必要なものは子どもが判断するということを教えたかったからだ。

そういう授業を見た、ある指導主事は「器具の少ないグループがあって、かわいそうだ」と言った。

社会科の自分たちの街を調べて、グループごとに発表するという時間では、男子のグループが、とても大勢には細かくて見えにくい図を描いてきた。
この時間はちょうど教育委員会の訪問で、やはり指導主事が見ていた。

私は「よりによって、みすぼらしい図を描いてきたなあ」と思い、どうなることかと思っていたら、別の女子のグループが「先生、用意してあります」と言った。
みると、立派に描いた図だった。
私は、予期せぬことにびっくりして、子どもたちを褒めたのだが、他の子どもたちもびっくりしていた。
(利己的という言葉をしばしば耳にする中で、子どもたちが自分のグループだけでなく、他のグループのことまで考えていた子どもたちは素晴らしいと思った。)

全職員と教育委員会が集まっての、ご高評の時、この授業について、あれは私があらかじめ用意しておいた演出だと言われた。

人間(子ども)というものを信用できない人たちなんだと思った。

長文になってきたので、中学校での例をひとつ挙げてみよう。

私の吹奏楽部は部員が70〜80人程度いると言ったが、これらの部員を指導するということは、小学校の学級担任以上のものがある。

一つの大きな学級王国とも言える。

活動の終わりには諸伝達とパートに分かれてのミーティングの時間を作ったが、生徒が部活を休みたい時は、特別な用事でなくても、部員の半数以上が了解してくれたら休めるとした。
これも自由を与える手段のひとつと考えた。

このように、生徒の自主的判断に任せることにより、生徒は自由な気持ちで自主的な行動ができるようになったと思う。

あまり細かくは書けないが、こういうことで部自体が先生たちの信用を得ることになり、新人戦という運動部の大会ではほとんどの先生も校外への出張になって、私も別の出張があったが、教務から「先生の部は子どもがしっかりしているから、子どもたちだけで学校で練習をしていいと、校長が了解しました」と言った。

それまでは、吹奏楽部も運動部と一緒に応援に行くことになっていた。

生徒たちは任されたということで、しっかり練習をしたということは言うまでもない。

子どもは任されたということで、責任を感じ、またきちんとできたということで自信を持つのだと思う。

きまりは増やすのではなく、減らす方向が正しいと思う。

もちろん、きまりには「右側通行」といった、生活上なくてはならないものもあるが、教師に「きまり」という言葉一つで、区別できない人はいないだろう。

はじめに言ったように、教師は実践者でなければならない。
だから、自分の経験をごく大雑把に紹介したのだが、こうすると器の小さい人の中には自慢しているという人がいたりする。
そういう小さい人が、時に、教師の中にいたりする。

子どもに生きる力をつけるには、特別なことはいらないと思う。
毎日の生活の中で、ちょっとした気遣いをすれば、それがとても大きな指導になると思うのである。

我こそはと思う人、ご自分の実践を紹介していただきたい。

この際「アラ探し星人」は無視しよう。




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posted by edlwiss at 20:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
 そうですね。その通りです。私の父から始まって、義父も、私も妻も同じ考え方のようです。賛同です。その結果です。
 私はしがないサラリーマンで楽しめました。妻は専業主婦を楽しみました。過去分詞ですね。
 娘は仕事家事趣味を両立させています。よく時間があると感心するほどです。一応過去経過も。
 息子は研究と家庭と趣味を両立させているようです。まだ家事はしていないようですが。現在進行形なのでしょう。
 孫は偏差値は低いですが、学校も塾も好き、バドもです。いつの間にか上手くなっていました。未来形として信頼できそうです。
 家の一家を見られているのかもと誤解したくなる今日の記事。偏差値など○○くらえ、です。(笑)ありがとうございます。
Posted by tsuguo-kodera at 2014年02月17日 05:02
tsuguo-kodera 様

私の考えにご賛同いただき、ありがとうございました。

「日本の親は、子どもが幼い時甘くし、大きくなると厳しくする」と外人から言われたことがあります。

ここは、反省点だと思っていました。

管理職は自分の心配ばかりをしている人もいるように思います。
教育改革では、こういうところが何とかできないものかと思います。

社会人を校長に登用したというのも、この試みかもしれませんが。
Posted by dolce at 2014年02月17日 23:57
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