2014年02月18日

子どもと接する場はすべて教育の場

教室に入って授業をすることだけが教育の場ではないことは、考えるまでもなく、当たり前のことです。
教師が児童・生徒と接する場面においてはすべて教育があります。

子どもは大人の都合よいように「この時は教育」「この時は教育でない」と区別はしてくれないでしょう。
子どものためにと公園を作ると、子どもはその外で遊ぶと聞いたことがあります。

授業中は姿勢をただし、勉強をしているように見えても、子どもは頭の中では何を考えているのかわかりません。
「またいつもと同じネクタイだね」と考えているかもしれません。

それに、今日の学校の授業がどれほどの意義があるのか疑問に思うこともあります。
これは、学校の先生の授業の非難をしているわけではありません。

私が言いたいのは、もしその授業を受けなかったとしたら、子どもにとってどれほどの影響があるのかと考えてみようということです。

何日も欠席していて、試験の日だけ出席し試験は満点をとったら、その授業の意味は何だろうと考えてみる必要があるのではないかということです。(実際そういう例はあるので)
もし、大切な授業だったのなら、その授業を受けなかったことの影響がなければならないと思うのです。

学校の授業はいろいろな科目に分かれていますが、人間の活動は、紙を切るときはハサミを、買い物に行くときは自転車をというように「・・・の時は国語」をとか「・・・の時は社会を」などと科目の使い分けはしません。

人間の活動にはすべての教科とその他のものが含まれており、それらのものが混然一体となって、ものごとに対処するわけです。
学校は分掌を決めて先生たちが仕事をしますが、こどもの側にとっては分掌は関係ないということを認識していなければならないと思うのです。

分掌は大人の都合による論理であり、生徒が数学の先生と話している時、国語はどうでもよいということはないはずです。
同様に生活指導の時間にはその時間だけ、生活の心得を守ればよいということではないはずです。

だから、子どもが登校し学校の門をくぐった時から、生活指導はベースになっており、先生は意識しなくても先生の対応は子どもに何らかの影響を与えていると考えるべきでしょう。

■訂正のできないコンピュータは不良品

昔のことになりますが「パソコン」ではなく「マイコン」と呼んでいたころは、プログラムも使う人が作らなくてはならないのがコンピュータでした。

だから、雑誌もプログラム例が載っていて、先生は成績処理のサンプルプログラムに関心を持ったものです。
雑誌にある成績処理のサンプルプログラムを打ち込んで、いざ現場の処理に使おうと思った時「これでは使えない」と気づいた人は多かったと思います。

300人分のデータを入力していた時、途中で入力ミスをし、訂正しようと思った時、訂正の機能がないことに気づいたのです。
間違えないように注意してやり直しても、またミスをしないという保障はありません。
極端なことを言えば、299人分までミスがなくても300人めで間違えたら、また始めからやり直しなわけです。

サンプルプログラムでは、データ数がたかだか10人分ぐらいなので、間違えても始めからやり直しても大したことはありません。
しかし、結局、訂正機能のないプログラムは実用になりません

同様に、人間も間違いを訂正することのできない人は、他人とのコミュニケーションを必要とする社会生活には適さないということです。
特に先生にとっては、この訂正機能は非常に大切と思います。

明らかに間違えているのに、何とか屁理屈をつけて押し切る人、これは子どもに最も嫌われる要素を持っている人と思います。
「先生が間違えていた」とこのひとことが言えない人がいます。

■みんなが生き生きとした学校

校内で何かまずいことがあると「窓口を一本化し、各人他言は無用」という箝口令が敷かれることがあります。
実はこれが、学校が最も不信感を持たれる原因と思われます。
これは「心を閉ざす」という宣言でもあり、文字通り足をすくわれないように、門を閉ざすことです。

似たようなことに、職員会で生活指導の話題に移った時、熱心でない先生に限って「生徒が、先生によって言うことが違うと言うんです」と持ち出す。
それで、言うことを統一しようというわけです。

「先生によって言うことが違う」の一言で、誰も意見を言わなくなってしまう。
それはなぜか?
それぞれの先生が勝手に放った言葉には、校長が保証しないと言っているようなものだからです。

こういうことが可決され、これをもとに生活指導がなされると、人は次第に無口になり、必要なこと以外は口をきかなくなります。
そして、学校全体に活気がなくなります。

個性の重視と言っているのに、各人の個性的な発言を封じるのは矛盾しているし、人間の生活を考えたら不自然です。

今行われているオリンピックもそうですが、順位はどうあれ、選手は自分の能力が十分発揮できたと感じることが大切と思います。
人は、自分の十分発揮できる場が欲しいと望んでいるのだと、私は思っています。

「話すことを統一する」で進む学校は、みんなが我慢して学校を卒業していくことになるでしょう。
(校長一人とヒラメ教師だけが喜んでいるのかも知れません)

私がリーダーの時は、こういう方向を全廃しました。
先生たちはこころよく同意してくれました。
「あのう、生徒に対する言葉は申し合わせて統一しないのですか?生徒にはどう答えればよいのですか?」
「いや、統一する必要はありません。先生方の思うところを存分、生徒にぶつけてください」

では、生徒は「先生によって言うことが違います。困ります」とは言わなかったか?
言った生徒はいました。
では、どうしたか。
「そうか、それはいかんなあ、よし、それでは先生たちはそのことで話し合って、結果を伝える。少し待ってくれ」
という返事をしました。

生徒からの「先生によって言うことが違います」という抗議は一度あっただけです。
いや、学校によってはもっと出る学校があるかもしれません。
その時は、先生たちは会議を開けばよいのです。

生徒の抗議の本音は、もともとそういう問題ではなかったのです。
それまでの、生徒に対する校則などの締め付けに、反感を持ち、どこか隙はないかとねらっていたのです。
だから、問題に正面から取り組んで、誠実に対処するという先生の態度に生徒たちの気持ちも変わって言ったのです。

学校はただ問題がなければよいのではなく、何か不満が渦巻いていないか、平和な時こそよく考えておくべきだと思うのです。
学校の最高責任者たる校長こそ、それらの観察力が必要だと思うのです。

自殺問題がニュースになる前に、対処してほしいと思います。





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posted by edlwiss at 16:19 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育研究
この記事へのコメント
「明らかに間違えているのに、何とか屁理屈をつけて押し切る人」

 本日もまさに的を得た、時を得た記事だと思いました。でも私は屁理屈王でもあったのです。その一端を紹介させてください。宣伝臭いのは我慢していただけたら有難いです。
 その前提で私の自慢話を少し聞いてください。当方、小学校のとき、私は兄や叔父と遊んでいたのです。彼らとは喧嘩しても腕力や実力で勝てませんでした。でも、喧嘩屋だったので、14、5歳年上でも負けたくなかったのです。泣かされてばかりでした。
 将棋、トランプ、メンコなど互角以上に戦えたから、彼らは悔しかったのです。度々、私が勝ちそうになるとインチキをしたのです。年上がですよ。最高学府の医学部の大学生もですよ。
 例えば、将棋なら、勝負あったと思えた瞬間、手が滑ったといって、盤面を壊したりしたのです。例えば、良い手があると思えたときや、勝てそうなときにです。そしてごめん、ごめんと言うのです。
 復元はまっとうにしないで彼らは自分が有利なようにずるをすることもありました。それでおしまいになるのが普通でした。口げんかが始まったからです。
 大人気ないとは、子供と真剣にやることではなく、子供相手にインチキをすることだと私は今も思っています。だんまりを決め込む、学校の先生は大人げないですね。子供以上の子供なのかもと私の経験から思えました。
 小学生の私が文句を言うと、つべこべともっともらしく大学生が屁理屈を言うのです。でも私も負けて居ませんでした。あらゆる屁理屈に、まっとうな論を展開していたと思えています。今の私の論理展開にこの経験が生きていると思っています。
 従って、学校の先生の屁理屈を負かす手は小学校から学べると今、思っています。私なら他の先生が気が付かないうちに、生徒さんに教えたいですね。これこそ創造性の開発ですね。
 プロセスや手段や具体策は私の飯の種、営業秘密ですので、此処で勘弁してください。また自分の得意を認識できました。ありがとうございます。

Posted by tsuguo-kodera at 2014年02月18日 18:22
tsuguo-kodera 様

>こういう力を持つべきかもしれません。

屁理屈をこねる人が「理屈に強くなるように鍛えているのだ」というのも、また屁理屈ですね。

とにかく、間違い、決めつけの誤りを訂正しない人はその都度信用を落としていると言えます。


それでいて、都合よく忘れ、偉そうに言うのは滑稽です。
Posted by dolce at 2014年02月20日 12:16
 都合よく偉そうに言うのはダメですね。へ理屈も度が過ぎれば可愛いものです。落語の八さんと熊さんの会話かもしれません。
 詰まる所弱者や子供のために真剣にできるかでしょう。八さんも熊さんもご隠居も落語の中で真剣です。私もです。陰で笑っている悪人はいるのでしょうね。
 管理人様に気を付けてくださいと言いたいところですが、天才の、例外の管理人様には不要だと分かっています。
 これからもご指導のほどお願いいたします。
Posted by tsuguo-kodera at 2014年02月20日 17:34
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