2014年07月29日

命を大切にする教育で何が不足してきたか

長崎であった痛ましい事件。
とにかく、教育関係者は知らん顔はしておれない立場だから、何か行動をする。
その行動は、全校集会、教育委員会主導の校長を集めた会議。
生徒にプリントを配る。
「今までにも、指導には力を入れてきたのに」と言う。

まあ、関係者は一生懸命やってきたつもりかもしれない。
しかし、努力とは会議の回数やプリントの枚数ではない。
いかに心に届いているかであり、どんなに労力を注いだとしても、心に届かなければ空振りである。
具体的にどんな指導が行われてきたかわからない私には、当然、一般論としての意見である。

大津であったいじめ自殺事件では、当該校が確か道徳の研究校ではなかったか、それに後にその学校の校長が教育長になったのではなかったか?
私の記憶に間違いがなければ、現実に行われている教育活動と、実際の教育効果とは相当に乖離しているとの印象を感じざるを得ない。

そういう実態を知ると、どうしても今日の教育が何をやっているのかという疑問も拭い切れない。
もちろん、今回の事件と今日の教育実践との関連性はわからないので、単純に結びつけることはできないが、それでも今の教育は大丈夫かと思ってしまう。

以前のブログ記事にも書いたが、子どもの起こす問題行動には順序があるということを、私自身の勉強から書いた。

1.落書きが多くなる
机やトイレ、自宅の部屋など、ナイフを使った落書きもある。
2.器物損壊
公園の木々の枝折、き損。
トイレ破壊。
3.小動物に対する虐待
虐殺もある。
4.下級生、同級生に対するいじめ、暴力
5.大人への反抗、万引き

■言う教育から行動する教育へ

ニュースで「命を大切にする教育で何が不足してきたか」を振り返ってみると言っていた。
ならば言おう、人に言うだけでなく、自身が行動する教育はなされてきたか?

だいたい、この国は行政が人に冷たくないかと思うのである。
何日も人が出てこない家に入ったら、餓死した男性の死体があった。
「握り飯が食べたい」と言っていたそうである。
生活保護を申し出たが受理されなかったそうである。

この国は、いわゆる「負け組」になると、誰も助けてくれないという気持ちが、国民に浸透していないか
負けたら最後ということが、一番の教育の成果になっていないか?

逆に、勝ち組になるには何をやってもいい。人の心?人の命?・・・「命の大切さを話した」という人が、人の命を大切にしているか?
そういう本人が出世競争に明け暮れて、人を粗末にしていないか?

子どもには「命を大切に」と言えば、子どもが命を大切にするようになる、と思っているほどバカではないだろう。だから集会を開いて「命を大切に」と言うのは儀式なのだ。

不足してきたのは「言う」だけで「自ら範を示す」という行動ではないのか?
盆暮れの付け届けはやめて、一個の握り飯が食べられない人に届けたらどうか?
その方が「命を大切に」の心は子どもたちに伝わると思うが。

■お上意識が抜けないバカ

教育委委員会というと、水戸黄門の印籠にひれ伏すバカがいる。
時代錯誤も甚だしい。
もし、社会科の教師だったらおめでたい話だが、そうだとしたら社会科の教師になっても、社会科は身につかないという証明になってしまう。
「国民主権」は理解できているか?

もっとおめでたいのは、教育委員会勤務になると、エラクなったと錯覚する輩。
「公務員は国民全体の奉仕者」という憲法第15条を知らないらしい。
(社会科の先生には周知のことですね)

常に、権力を持たない弱者、教育にあっては未成年の子どもに目を向け、大人の都合で子どもが犠牲にならないように、常日頃、目がいっていなければ「命の大切」は浸透するわけがない。

■道徳は人にやれというのではなく、自ら行うこと

子どもが社会に目を開いていく時には、範として、自分に一番近い大人が基準となると教育学事典に書かれている。
とすれば、教師は子どもに「言う」のではなく「自ら行動する」べきである。
道徳の授業が終わったあと、子どもは授業の影響を受けるのではなく、道徳を行った先生の行動を見るようになるのだろう。

安倍首相は道徳教育に熱心のようである。
だったら、霞ヶ関の官僚に屈することなく、国民のためになることなら、抵抗をはねのけてほしい。
子どもからは遠い話のようにみえるが、意外に、子どもには届く行動のように思う。

それは、首相が画期的な(国民のための)行動をすれば、大臣、以下行政に変化が起こり、その変化を子どもも察知するからだと思う。


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posted by edlwiss at 14:17 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題
この記事へのコメント
 私は今日の記事には経験談しかコメントできません。虚実同根、誰も本当のことは分からない。神様でないのです。それが人なのでしょう。
 聖徳太子の憲法、敗戦後の憲法には、相通じることがあると私は思います。
 上に立つ者の心構えが書いてあります。庶民の義務ではなく、政を定め実行する立場の人は心せよ、と書いてあるのでは。これだけでしょう。
 心の教育、心ノートなど私は全く面白くないのです。私の子供時代、遊びだけが好きなのです。今もかも。
 勉強も遊び、スポーツも健康維持ではなく遊びなのです。勉強が生きる力の習得などではつまらない。スポーツも勝つために、精神と肉体を鍛えるためではつまらない。一般人は大人も子供も坊主ではないのです。
 大人が禁止するゲーセンやゲーム、特に危ないゲームは遊びになるのです。壊すのも遊び。苛めの遊び。怖し苛めるしか詰まらなくなった子供は反社会勢力の禿でしょう。平家の禿と同じです。子供が信じたらとことんやるのです。
 だからこそ、先生は数学や算数を遊びのように楽しくしないといけない。全教科。部活もクラブも。修学旅行も見学も。楽しいから真っ当に言うことを聞くのです。それが普通の子供です。
 大人が下手に遊んであげてもつまらない。くだらないことをして子供は道を踏み外す。だから真っ当そうな心の教育をすることと事件は無関係ではありえない。複雑性の課題ではなく、線形関係の課題かも。
 管理人様が音楽を小学生や中学生に教えたように、その本質を教える、ただただ教えるから生徒さんは面白くなる。人に構っている暇はありません。あっしにはかかわりのないことと思えることが、子供は広い領域で楽しいのでは。
 私は物心がついて以来、すべてを遊んできました。道徳や心の教育など全くない、酷いガキ。面白い本をたくさん読みました。中高校生になり、人生に迷いが生じ、迷った先人の天才の伝記や言葉や物語を面白く読みました。勝手に密かに読みました。恥ずかしいので。
 大学でさらに迷い、仕事で悩み、論語も親鸞も聖書も読みました。これも秘密でした。密かに読めたのは、読みたくなったのは5歳ごろの孫悟空や坂田の金時の絵本が楽しかったから。小学生の時の赤胴鈴乃介が面白かったから、大学のキャプテンやプレイボールが面白かったからかも。
 本に親しめた学校や家があったから、つまらなそうな課題を面白くできたのでしょう。
 以上です。
Posted by tsuguo-kodera at 2014年07月30日 04:33
社会の分業化が進んだせいか、人々は自分の責任範囲だけに関心があって、何かことがあると、自分の範囲だけ守ろうとするようになってきたのではないかと思うのです。

それは「人の冷たさ」を感じることになり「自分のことなど、誰も大切に思ってくれないのだ」という考えが無意識のうちにしみつき、人の命だって大切という気持ちが育たない環境にあるとも私は考えます。

tsuguo-kodera さんの、本日のコメントには意味深いものを感じました。
このコメントを元にもっと考えてみたいと思っています。
ありがとうございました。

Posted by dolce at 2014年07月31日 00:00
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