刑罰としての死刑に賛否を問うと、アンケートでは賛成が多いと報道されている。
しかし、これを持って世論が死刑に賛成していると考えるのは単純すぎる。
なぜ、死刑に賛成するのかを考えねばならない。
死刑とは国家による、合法的な殺人である。
こうみると、殺人に賛成の人がどのくらいいるだろう?

死刑に賛成か反対かという聞き方は、AかBか二者択一せよという聞き方だ。
どちらかを選ばざるを得ないから、別れるのだろうが、人を殺すことに賛成だという人は少ないのではないかと、私は思う。
■歯止めとしての死刑
これも、私の思うところだが、死刑という極刑を設けるのは、人を殺すような罪を犯したら、自分は死刑になるかも知れないという恐れから、殺意を抱いても殺人を踏みとどまる効果をねらったものではないかと思うのである。
■死刑の問題点
裁判は人間による判定である。
人間である以上は判断にミスがないとは言えない。
人間はミスをするというのは、社会生活上の基本である。
これは、もちろん、ミスをしてもいいということではない。
万全の注意をしたとしても、ミスは免れないというのが人間、という考えである。
死刑の最大の問題点は、執行したあと、あの判決は誤りだったとわかっても、回復のしようがないということである。
■冤罪
死刑判決を受けたのに、再審で無罪になった人が、私が知る限り、4人はいる。
よく、人を殺したら死刑になって当然だという意見を聞く。
しかし、人を殺したということを誰が知っているのだろう?
これは、行った本人と、現場にいて目撃した人しかわからない。
裁判官は想像で判断しているだけである。
裁判官は神ではない。
私が呆れた考えに「裁判は真実を決めるところ」というのがあった。
真実を決められる人など、いるはずがない。
■冤罪を生む背景
なぜ冤罪が起こるのか?
それは、人間はミスをすることもあるからという単純なものではない。
司法は、戦後のGHQの改革が及ばなかったところと言われる。
これは、司法の世界には戦前からの思想が続いているということである。
その影響か大審院という明治時代に作られた機関の判例が、今も生きている。
裁判官が判決を下す時の根拠としては
1.証拠による判断
2.裁判官の心証による判断
がある。
これは法律であるが、問題は2の「どうあろうと、裁判官がそう思ったら思った通りに判決を出していい」ということである。
もっと平たく言えば、判決は裁判官の気分次第とも言える。
気分次第で死刑判決を出しても、裁判官にペナルティはない。
これを称して「やり得」と言われている。
有名な弁護士の著書を読んだところ
「トーストの焼け具合が悪いと、死刑判決が出やすい」
と言うのがあった。
この意味がおわかりだろうか?
■正義が勝つとは限らない
これも、有名な弁護士の言葉である。
「頭にきたから裁判だ」と言っても、正しいから勝つとは限らないということが書いてある。
■必要な証拠は作ってしまう
警察や検察は、犯人に仕立てるためには、必要な証拠は作ってしまうということである。
まさかと思う人もいただろうが、厚生労働省の役人の冤罪事件はフロッピーディスクの改ざんであった。
袴田事件では容疑者の履いていたとするズボンは、検察による捏造だったらしい。
こうしたことが起こるのは、検察が法の番人というより、検察もお役人だから出世志向だということである。
凶悪事件を解決したとか、地位の高い人を有罪にしたら手柄になり、出世の材料になるということである。
冤罪というが、証拠まで捏造して人を罪に陥れるのは、冤罪ではない。
国家による権力犯罪である。
そして、こういう捏造がバレたとしても、大したお咎めはない。
誤って死刑判決を出した裁判官に対してもペナルティはない。
このように人間のやることは、神から見たら欠陥が多い。
果たして、日本は民主国家と言えるのかとも思う。
教師たるもの、民主国家を作るためには、確かな思考力と深い知見を持たねばならない。
教師は国(文部科学省)のポチであってはならない。
それが、悲惨な軍事国家に戻らないための力でもある。
教育に情熱を

おかしい人の判定項目



異国の丘を眺め国を思う。満州は棄民と言うが、兵隊さんも国家から捨てられたのでしょう。学徒兵を見捨てたのは結局国民なのです。新聞社がお先棒を担いだのです。
南の島に雪が降る、ビルマの竪琴、硫黄島、大和出撃、などなど、いくらでもあります。東京大空襲、広島長崎。
愛する祖国や家族の、また天皇陛下のために自らの意思で死ねた人も多かったかも。まだ救われるような気もします。乳飲み子を抱えた幽霊の行進など皆さん忘れてしまいました。
現状がそうなのは仕方ない。だれのせいでもありません。我々国民のせいなのです。
戦争が終わり帰国の途にあった民間の船も撃沈されたし、赤十字の病院船も疎開の学童の船もありました。
北方の旧日本領に居た女性の交換担当者は戦争終結後に侵入したソ連軍によって死にました。
国際法をソ連は守らなかった。国際世論からその犯罪を糾弾されることはありませんでした。
まさに現実は勝てば官軍です。それが世界の歴史です。戦争も貧民救済の究極のビジネスによって偶発的に発生してしまうのでしょう。我が国民が望まなくてもおきるのです。何百万と言う殺人事件がおきるのです。
最高裁判所の判事を信任したのは国民です。今のその人たちが間違っているといっても、信任をした人が多いのです。税金を使い投票をしているのに権利を使わない有権者が多いのかも。結局税金の無駄使いなのです。
冤罪と言いますが、冤罪を生む背景は多様です。一概に検察庁のせいばかりではありません。むしろ判事の就職活動による例の方が多いのでは。
そのような例では結局何億と言う金額に達したであろう捜査費用の、即ち税金の無駄使いです。
やはり国民が無駄銭がすきなのです。し方ありません。無駄に子孫が死んでも、そうしたのは親の代です。
仰るとおり、最高裁の判事も国民が承認しているので、現状は国民の意志を受け継いでいると言えるのでしょう。
しかし、ほとんどの人は、審査する人をわかっていないと思います。
せめて、日曜討論ぐらい出たらと思います。
それに「承認の場合は何も書かない」のではなく「◯をつける」に変えてもらいたいと思います。
私は二十歳から今まで、庶民の要望を代弁してくれる代議士の投票で棄権したことは一度もありません。そのとき、最高裁判事の信任投票もありますね。今まで全回、全員に×を付けてきました。知らない人だから実践命の私は承認できません。×です。
そんな国民が増えたらテレビで宣伝のために判事候補は出演します。やらないのは、規約通りに権利を行使しない国民がそうさせているだけです。これも仕方がありません。たとえ官僚や明治の元勲がそれを望んでも、最高の仕組みはあるのです。