では、なぜこういうタイトルを掲げるかと言うと「多数決だから正しい」という人がいるからである。
何とも情けない気がする。
「多数決で決まったことは正しいですか?」
と社会科の先生に聞いてみた。
返事は
「多数決で決まったことは、(おおむね)正しいと言えるんじゃないか」
だった。
■多数決の例
1.帰宅した子どもが頬を赤くしていたので、母親が問い詰めたところ、クラスでは宿題を忘れた子の頬を忘れなかった子が平手で叩くということが決まったという。
母親が担任に問い合わせたところ、担任は「多数決で決まったことですから」と答えたという。
2.山奥の小学校で、子どもたちが来年は海水浴に行きたいと話し合いをした。
賛否を問うと、大多数は賛成だったが、3人反対の者がいた。
海水浴は決定できるのだが、賛成の子どものうち、3人はなぜ反対するのかに関心を持った。
3人の家を訪問して話を聞くと、3人は家計を心配して反対したのだとわかった。
それで、子どもたちはみんなで栗拾いをして、費用を作ることにした。
栗拾いの後、再び賛否を問うと満場一致で海水浴に行くことが決定した。
[まとめ]
「多数決だから正しい」のではない。
多数決はものごとを決定するための手段の一つにすぎない。
国会でも「議論が尽くされていない」と紛糾することがある。
話し合いは、議論を尽くすことが大切であり、多数決を用いれば何でも正しいと勘違いして、即多数決をするのはよくない。
教育に情熱を

おかしい人の判定項目



しかし、こと現実の社会、特にグローバル化した現代社会では多数決は正しいのでは。原発も自衛隊も、秘密保護法案も十分に国民は議論できています。官僚もしているでしょう。その結果、簡単に国会で決まるのです。国会の議論など知ることは、国民にとっていくら長い期間とられても、そんなことを調べている時間がたりません。生きてゆくのだから。
教育は、いろいろな考え方があり、いろいろな弱者を優先する考え方を学ぶため少数意見の尊重です。だから多数決は正しくないでいいのでしょう。だから国会の議決では遅いことを学んだのでしょう。
しかし、裁判は多数決にならざるを得ない。ゼロ一の結果になるのです。だから3回も裁判ができるのでしょう。
制度としてはまあまあましな国でしょう。その制度を作ったのは先人の努力の結果です。努力しない国民が増えたならどこに行こうと仕方ないです。
今はスマホが子どもたちの影響にやり玉に上がっています。
昔はテレビがそうでした。
テレビが悪者になっていましたが、テレビ自体が良いとか悪いとか言うのはおかしい。
多数決も道具のようなもので、使い方次第だと思うのです。