そこで、自分の話し方の欠点を大いに感じた。
それは「しゃべりすぎ」ということだ。
すべて自分が説明してしまうというのがまずい。
例えば、資料を目の前にして
「赤道の一周は約4万Kmですね」
と言ってしまう。
資料に書いてあるのに、こう言ってしまうのがまずいのだ。
「赤道の一周はどれだけですか?」
すると、相手は資料を見る。
そして、相手が「約4万Kmです」と答える。
この方がいいのだ。
つまり「数字は相手に言わせる」ことがポイント。
そして、相手と自分との間で、言葉のキャッチボールのあることが大切。
一方的に、やつぎばやに話してしまうのがまずい。
特に、大切なことは相手に言わせることが大切。
こういうことで、大切なことが印象強くなる。
こんなことは、ベテラン教師にとっては当たり前のことかも知れない。
しかし、人によっては相手が反応する隙がないほど、話が連続する人がいる。
授業はポイントが印象深くなることが大切。
だから、起承転結を用いたり、感動を呼ぶ演出を考えたりする。
そう言えば、かつてこの起承転結や感動を否定した人がいた。
しかも、その人は教員養成に携わっているという。
その人曰く、感動のある授業はよくない。授業は平坦に淡々と進めるのがよいと言った。
とすると、その人は感動のない授業をするように、教員を養成しているのだろう。
テレビをみていると、よく「どれぐらいだと思いますか?」と問いかけ、聞いている人たちに予想を言わせるという場面がある。
「それでは」と言って隠してある紙をめくると、予想外の数字に一同が驚いたりする。
ここに感動があるわけだ。
正解を隠しておかなくても、教師が答えてしまうのではなく、児童・生徒に教科書の記述を確認させ、言わせることで印象も強くなる。感動を呼ぶこともある。
教科書を読んで済ませることができるような教科は要注意だ。
大学の経済史の授業で、先生がはじめに「昔、日本とアメリカが戦争した時にですね・・・」と始めたら
「エッ、先生、それでどっちが飼ったんですか?」と聞いた学生がいたそうだ。
先生は力が抜けたそうだ。
小学校から高校まで社会科の勉強はしてきたはずだが、こういう大学生がいたことは事実。
戦争のことは習ったはずだが、記憶にないということだ。
人は関心のないこと、感動のないことは記憶に残りにくいと思う。
音大生で、ショスタコービチを知らない学生がいたというのも、話題になっていたが、音大でショスタコービチがどこかで出てこないということは考えにくい。
問題は、そのレベルの音大生がどれほどの音楽ができるのか、疑問である。
特にクラシックフアンでなかったら、知らないという人はいるだろう。
やや、話が脱線した感がある。
とにかく、しゃべりすぎないことを、念頭におこう。
教育に情熱を




実は私はしゃべりすぎます。意図的です。ごまかしたいときにです。いわゆる煙に巻くです。真面目に仕事をしたいときは熟慮熟視断行です。
子供は何でも好奇心があるのが普通です。最近は大人にすぐなり、無感動の人もいます。本来未成年には好奇心があり、創造性を刺激されたら感動する生き物です。子犬も同じです。育ち方で成犬でもいますが。
でも最近私は何も感動しなくなりました。感動させられるのも辟易とする時が増えています。
仕事や学校も何も新しくないからです。こうだろう、こうなるだろうと予想するように事態が推移するからです。面白くないのです。普通犬も歳を取ると喜びが少なくなるようです。犬なら可哀想ですね。
逆に感動が大事なのは発達段階。だから私はバドができなかったお子さんが1時間でできることができるときだけ感動するのです。ここだけです。相手の笑顔つきの感動した表情に感動するのです。
感動は怖い面もあります。特攻隊で命を捨てた純粋な若者の話に感動するのは戦争が嫌いでもしてしまいます。子供が募金活動をすると感動します。誰でもするでしょう。
だから変な国のトップが朝起きの町清掃をする年寄りに感動すると、大手メディアが感動したと喧伝し、私のような腰も痛い暇もない死に損ないにも箒を持たせることになる世の中が怖いのです。
論旨大賛成ですが、感動の言葉は注意して使っていただけないでしょうか。情熱は素晴らしいですが、私はむしろ感動は蒸発するから良いのだと信じています。感動は子供ができないことができたのを見た時だけしています。あしからず。
ウィーンフイルの素晴らしい音に魅了され(感動し)以来、今日に至るまでオーディオを続けている原動力になっています。
変な話ですが、私はネコの運動能力素晴らしさにも感動してしまいます。
私が言いたいのは、できるだけ自分が感動したことを周囲に言わないようにしているということなのです。
私もウイーン少年合唱団やオーベルンキルヘンの少年合唱団、ひばり少年少女合唱団の歌声で涙が出てきますが感動と思いません。
感動は一億火の玉になりかねない。嫌いな言葉です。感動は簡単に伝染し、感動しない人は異邦人にみえるでしょう。いやな世の中になりました。
もうしわかありませんが、猫の表情は分かりたくありません。分かる管理人様を尊敬します。
一方当方犬は分かります。差別かも。いいえ育ちです。いろいろ育ちがあるのは仕方ないです。3歳の時から犬がいたので、闘犬犬種ですら可愛く見えるのです。
人はいろいろ。感動を押し付けては危険なのです。
もうそんな世の中になっています。いちゃもんではありません。あしからず。