「絶対」という言葉がひとり歩きし、評価が絶対評価になっていないのに、絶対評価と認識してしまっているという誤りがある。
これは、少しの数学的思考を持って考えれば、容易にわかることである。
A、B2つの異なった環境の学校があり、それぞれの学校内に何人かの中学生がいるとする。
まず、一般に言われている絶対評価とは、それぞれA校内の絶対評価、B校内の絶対評価であり、A校B校共通の絶対評価ではあり得ない。
こんなことは、常識人ならすぐにわかることである。
もし、これがわからないという人がいるとしたら、いくつか現実の例を挙げてみるといい。
子どもに説明する場合に役立つかも知れない。
(1)通貨のドルはアメリカ$、オーストラリア$、ニュージーランド$とあるが、同じ$でも価値は同じではない。
それは、通貨のグループが違うからである。
(2)日本のプロ野球は、セ・リーグ、パ・リーグとあるが、選手の記録はそれぞれセ・リーグ記録、パ・リーグ記録である。試合グループが違うから当然である。
世界には野球チームがあるが、みなルールは同じである。
ルールは同じであるが、それぞれの国での選手の記録が、どこでも通用するものではない。
もちろん、それぞれの国での記録としては認められる。
このように、統計の常識から言って、統計を取るグループが違えば、記録は
他のグループでは通用しない。
もし、絶対という評価がグループを越えて通用するとしたら、図のXとYが同じ評価であった場合、XとYを入れ替えても同じ評価になるはずである。
■人間が評価する限り、誤差はつきもの野球でのストライク、ボールの判定は横、高さともルールで決まっている。
しかし、個々の試合では、どうしても「審判のクセ」というものがあるので、すべての試合に於いて同じ判定がされたとは言いがたい。
それでも、許されているのは個々の試合内では、審判が公平に判定しているからである。
学校での成績も、同様なことが言える。
特に学校では、それぞれの学校ではその学校の先生が、試験問題を作るわけだから、なおのこと誤差は大きくなるだろう。
■評価の妥当性を検証する場合の混乱相対評価の場合は、5、4、3、2、1の比率が決まってしまうので、起こらなかった問題が絶対評価に変わったことで大きな混乱を来すことになった。
相対評価の欠点は、比率が決まっているので、優秀者が10人いても5の配分が5人なら、5人しかつけられない。
例えば、10人が満点であっても、5人と決まっているので、何らかの方法で差をつけなければならない。
それが、今回の絶対評価に変わったことで、成績優秀者は優秀者として比率に関係なく10人に5をつけることができるようになった。
これは、生徒側としては幸せなことであるし、やる気も出ることである。
だが、成績(評価)の判定はプロ野球のように厳しく決められているわけではない。
自動車学校の場合は、教習員がいくら甘いと言っても、運転技能のない者を卒業させて公道を走らせるわけにはいかないので、そこは自然に限度というものができる。
ところが、義務教育の中学校にあっては、そういう自然な「しばり」というものもない。
(特に、最近では大学生でも、分数の計算ができない者がいる、と言われているぐらいだから。)
いっそ、中学校で成績をつける場合、分数の計算ができたら「2」、因数分解ができたら「3」、2次方程式が解けたら「4」などと明示的になっていたら、評価の絶対性は高くなると思うのだが、なにしろ
義務教育は年数主義だからそうもいかない。
絶対評価に踏み切ったということは、100人中50人が「5」であったとしても構わないということである。
いや、100人が「5」であっても構わないわけである。
そうした時、教育委員会が評価の妥当性を検証すると言っても、具体的に如何なる方法で検証するのだろう?
「5が多すぎる」とか「1がいない」なんてことを言うのだろうか?
もしそうだとしたら、教育委員会は成績をつけられた生徒を、よく知っていなければならない。
つまり、教育委員会はすべての生徒の妥当と思われる成績を知っていなければならない。
そういう根拠なしに「あなたの学校は評価が甘い」などとは言えないはずである。
教育委員会が、そこまで言える強さを持っているなら、最終的な成績は教育委員会がつければいいことになる。
実際には不可能なことであるから、評価した先生が「評価には自信があります」と言えば終わりである。
そう言えない人は、教育委員会のご機嫌を損ねないように気を遣って、調整することになるのだろうか?
第一、優秀な成績者が多すぎるというような圧力をかければかけるほど、絶対評価と言いながらも以前の相対評価に近づくことになる。
このように詰めて行くと、高校入試を意識した中学校の評価は曖昧、いい加減といった印象を免れなくなる。
個々の先生によって、評価の違いが出るのはむしろ当然とも言えるもので、その違いをなくそうとするなら、先生の個性を否定することになる。
先生の個性が否定されて、子どもの個性が尊重されるわけがないと思うのだが。
このように、少し考えただけでも、絶対評価には矛盾が発見される。
だから、高校側が中学校からの内申を重視しなくなるのは当然とも言える。
教育委員会が変な介入をし、評価を動かすようなことがあれば、根拠の開示を迫られ、場合によっては、
日本国憲法第14条「法の下の平等」で訴訟を起こされるかもしれない。
(アメリカのように、日本も「訴訟社会」になっていくだろうから、可能性は低くないと思う)
■妥当な絶対評価とは統計の基本から言って、母集団(グループ)を一つにするしかない。
わかりやすく言えば、プロ野球の交流線のようなものである。
そうでなければ、高校側としては各中学校が生徒の順位を資料(内申)として出してくれた方がいいのだろう。
そうすると、以前の相対評価の資料の方がいいことになってしまう。
中学校の先生は、成績に敏感になっている保護者に対して、筋道の立った説明ができないと、不信感を持たれるだろうから、準備に怠りのないようにしておくべきである。
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