2014年08月01日

体罰指導の反動

学校で体罰が問題化し、今では教師の体罰がかなり減ったらしい。
おかしいのは、体罰はもともと禁止だったのに、ここに来て再び教師の体罰が問題化したことだ。

これは、飲酒運転を思い出させるものがある。
近年、飲酒運転が激減したのは、罰則が強化されてからである。
体罰も厳罰化の傾向になってから、減ったと言える。

しかし、問題がなくなったわけではない。
体罰教師がまだいるということではなく、指導に体罰は必要と考えている教師がまだいるということである。
体罰が必要と考えている教師は、罰則が厳しいから踏みとどまっていると言えるだろう。

学校によっては、教師が生徒を注意しようとすると、生徒の方が「体罰」という言葉を発すると言う。
生徒の気持ちとしては「先生、言うことを聞かせようとして、体罰を使ったらどういうことになるか、わかっているだろうな」と言うことだろう。

このため、教師としては指導ができないと言う。
つまり、体罰は必要だ、体罰は認めてほしいと訴えているわけだ。

だが、ここでよく考えるべきである。
指導時に、生徒がわざわざ教師に向かって「体罰、体罰」と聞こえるように言うのか?
それは、今まで体罰を使ってきたからだろう。
つまり、指導の手段として体罰を用いてきたということだ。

私は今のように体罰が問題視される前に、体罰は絶対禁止ということを貫いてきた。
具体的には、学年主任の時、学年集会で「体罰があったら、どんな理由があろうとも、体罰を行使した者が悪い」と、体罰は絶対に行わないという宣言をした。
生徒たちの間から歓声が起こったのには驚いたが、それは、それまで、ないはずの体罰があったということだろう。

先生の中には「まずい」という顔をしていた人もいたが、学年主任が宣言したものだから、それからは体罰がなくなった。

だから、今日、体罰ができなくなって指導がやりにくなった、体罰ができないことをいいことに生徒が挑発をするなんてことは全くなかった。
生徒が「体罰、体罰」と言って教師を挑発するのは、生徒にしてみれば、今まで体罰で屈服させられてきたことの反撃だろう。

■体罰に頼るから頭が悪くなる

私が体罰を反対するのは、体罰は暴力と同じであると思うことと、体罰を指導の手段とする教師は頭が悪くなると思うことである。
思うようにならないと、体罰というのは、考えなくなると思うからである。

実際、体罰教師と言われる人に会ってみると、考えが単純と思う。
「そんなん、殴るしかない」
という。

私の学年で、体罰全面禁止を徹底してから、指導に困ったという教師は一人もいなかったし、むしろ生徒たちは教師の話を真剣に聞くようになった。
生徒たちと教師たちの距離も縮まったように思った。

体罰に関しては、まだ思うところがあるが、次回にしようと思う。


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2014年07月29日

命を大切にする教育で何が不足してきたか

長崎であった痛ましい事件。
とにかく、教育関係者は知らん顔はしておれない立場だから、何か行動をする。
その行動は、全校集会、教育委員会主導の校長を集めた会議。
生徒にプリントを配る。
「今までにも、指導には力を入れてきたのに」と言う。

まあ、関係者は一生懸命やってきたつもりかもしれない。
しかし、努力とは会議の回数やプリントの枚数ではない。
いかに心に届いているかであり、どんなに労力を注いだとしても、心に届かなければ空振りである。
具体的にどんな指導が行われてきたかわからない私には、当然、一般論としての意見である。

大津であったいじめ自殺事件では、当該校が確か道徳の研究校ではなかったか、それに後にその学校の校長が教育長になったのではなかったか?
私の記憶に間違いがなければ、現実に行われている教育活動と、実際の教育効果とは相当に乖離しているとの印象を感じざるを得ない。

そういう実態を知ると、どうしても今日の教育が何をやっているのかという疑問も拭い切れない。
もちろん、今回の事件と今日の教育実践との関連性はわからないので、単純に結びつけることはできないが、それでも今の教育は大丈夫かと思ってしまう。

以前のブログ記事にも書いたが、子どもの起こす問題行動には順序があるということを、私自身の勉強から書いた。

1.落書きが多くなる
机やトイレ、自宅の部屋など、ナイフを使った落書きもある。
2.器物損壊
公園の木々の枝折、き損。
トイレ破壊。
3.小動物に対する虐待
虐殺もある。
4.下級生、同級生に対するいじめ、暴力
5.大人への反抗、万引き

■言う教育から行動する教育へ

ニュースで「命を大切にする教育で何が不足してきたか」を振り返ってみると言っていた。
ならば言おう、人に言うだけでなく、自身が行動する教育はなされてきたか?

だいたい、この国は行政が人に冷たくないかと思うのである。
何日も人が出てこない家に入ったら、餓死した男性の死体があった。
「握り飯が食べたい」と言っていたそうである。
生活保護を申し出たが受理されなかったそうである。

この国は、いわゆる「負け組」になると、誰も助けてくれないという気持ちが、国民に浸透していないか
負けたら最後ということが、一番の教育の成果になっていないか?

逆に、勝ち組になるには何をやってもいい。人の心?人の命?・・・「命の大切さを話した」という人が、人の命を大切にしているか?
そういう本人が出世競争に明け暮れて、人を粗末にしていないか?

子どもには「命を大切に」と言えば、子どもが命を大切にするようになる、と思っているほどバカではないだろう。だから集会を開いて「命を大切に」と言うのは儀式なのだ。

不足してきたのは「言う」だけで「自ら範を示す」という行動ではないのか?
盆暮れの付け届けはやめて、一個の握り飯が食べられない人に届けたらどうか?
その方が「命を大切に」の心は子どもたちに伝わると思うが。

■お上意識が抜けないバカ

教育委委員会というと、水戸黄門の印籠にひれ伏すバカがいる。
時代錯誤も甚だしい。
もし、社会科の教師だったらおめでたい話だが、そうだとしたら社会科の教師になっても、社会科は身につかないという証明になってしまう。
「国民主権」は理解できているか?

もっとおめでたいのは、教育委員会勤務になると、エラクなったと錯覚する輩。
「公務員は国民全体の奉仕者」という憲法第15条を知らないらしい。
(社会科の先生には周知のことですね)

常に、権力を持たない弱者、教育にあっては未成年の子どもに目を向け、大人の都合で子どもが犠牲にならないように、常日頃、目がいっていなければ「命の大切」は浸透するわけがない。

■道徳は人にやれというのではなく、自ら行うこと

子どもが社会に目を開いていく時には、範として、自分に一番近い大人が基準となると教育学事典に書かれている。
とすれば、教師は子どもに「言う」のではなく「自ら行動する」べきである。
道徳の授業が終わったあと、子どもは授業の影響を受けるのではなく、道徳を行った先生の行動を見るようになるのだろう。

安倍首相は道徳教育に熱心のようである。
だったら、霞ヶ関の官僚に屈することなく、国民のためになることなら、抵抗をはねのけてほしい。
子どもからは遠い話のようにみえるが、意外に、子どもには届く行動のように思う。

それは、首相が画期的な(国民のための)行動をすれば、大臣、以下行政に変化が起こり、その変化を子どもも察知するからだと思う。


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2014年07月21日

質問すると怒る人は先生に向かない

私が、この人とはコミュニケーションが取れないなと思う人に、質問をすると怒るという人がいます。
質問は話をしっかり聞いているという裏付けでもあると思うのです。
話す側からしても、質問されるということは、よく聞いてくれているということで、嬉しいことだと思うのですが、質問すると怒る人はいます。

何か提案があるとき、提案書を検討することはよくあります。
読んでみた結果
「はじめの方にある○○と、後ろの△△とは矛盾するのではないでしょうか?」
と質問すると
「そういうことを言われますと・・・できなくなりますが・・・」
と不機嫌になる人がいました。

私はまじめに検討するつもりがあって、質問したわけなのに、とんでもない跳ね返りがありました。
同席した他の人はどうなんだろうと、顔つきを見ると、無気力無感動といった顔をしていました。

私は悟りました。
(質問してはいけないのだ)
と。

私はそのグループには新しく参加したので、それまでの伝統(?)を知らなかったことに気づきました。
つまり、この会議(検討会)は単なる儀式だったわけです。

だから、みんな中身にはあまり関心がなく、一応、形式的に終わって。
提案書はどうであろうと、それぞれ勝手にやっていく。
こういう伝統が続いていたわけです。
これも、親方日の丸の世界ではのことかもしれません。

ネットの世界にもあります。
掲示板やブログでいきまいている人がいます。
それはそれでよいのですが、まじめに読むと質問したいことが出てきたりします。
やはり、質問すると怒る人がたまにいます。

怒って「攻撃する」と言い返してくる人がいます。
「子どもには、やさしい言葉に言い直して話します」
なんて書いてある場合
「例えば、どんな言葉にするんですか?」
と質問したら「あなたのように攻撃してくると・・・」なんて言われました。
そして、あいつはどこのどういうやつだなんて、詮索も始まりました。

こういう人たちは、私から見ると「異常」の分類に入ります。
こういう人たちが先生をやると、どういう授業をするんでしょうか?

私は、こういう人たちは先生には向かないと思っています。


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2014年07月05日

絶対評価〜幅があれば違いは出る

精密部品の設計図は許容誤差が少ない。
1000分の1のレベルを問題にするものも少なくない。
こういうものは、どこへ注文しても、どこで作ってもできてきた部品は同じとして扱える。

しかし、文部科学省の仕様書はそうではない。
もちろん、文部科学省の仕様書とは学習指導要領のことだ。
その上、学習指導要領は法令ではない。

このことが問題になった事件に、伝習館高校事件がある。
3名の教師が学習指導要領の内容に沿っていないとして、処分を受けた事件である。
最高裁まで争われ、学習指導要領の法的拘束力が問題となった。
学習指導要領の法的位置付け 各教科の単元の構成やその詳細が指示されているが、法令ではない。しかし、学校教育法施行規則に基づいて定められているため、その効力については議論があるが、伝習館高校事件の最高裁判所における判例によると、一部法的拘束力とするには不適切な表現があるものの、全体としては法的拘束力を有すると判断されている。ただし、伝習舘高校は公立高校であり、本判例が学習指導要領が私立学校までをも拘束する趣旨であるかどうかは微妙である。フリー百科事典「ウィキペディア」より

法的拘束力が問題になる省庁は、文部科学省以外にはないのではと思う。
それは歴史的背景と、教育の特殊性にあると思う。

第二次大戦の終わりと同時に、日本ではGHQによる改革が始まったのだが、日本が進めた軍国主義教育には特に強い関心が持たれた。
結果、文部省の支配権は骨抜きになり、教育への単なるサービス機関となった。

こういう経緯があるため、文部科学省は他の省庁と比べると、国のトップの機関としては「弱い」印象を受ける。
特に「国が教育に関して不当に介入する」という懸念には敏感になったと言える。
日本は独立国になったと言えども、未だに米国の反応には神経を使っていて「属国」意識も残っている。

それに加えて、全体主義国家でない限り、教育に国が不当に介入することは、教育そのものの死をもたらす。
こういうことについては、全く無知な人を、しばしばみかけることがあり、呆れたりする。
「お上意識」という言葉があるが、文部科学省がお上であり、教員はお上のお達しをありがたく拝聴し忠実に実行する「ポチ」であることを誇りにしていると思われる人もいる。
なにしろ、お上には弱いのである。でも、お上はいないのである。あの水戸黄門様の時代ではないのである。

文部科学省が「この印籠の紋所が目に入らぬか」ということはないのである。
「主権は国民にある」と憲法で規定してある。
だから、文部科学省と言えども「教育の自由」を犯すことはできないのである。

教育の最高機関として、文部科学省が存在するが、実際に教育活動を行うのは教師(教員)であり、教育活動で最も保証されているのは「教師個人の自由な発想と創意工夫による教育活動」である。

しかし、教師は何をやってもいいということではない。
例えば、工作で(殺傷能力のある)ピストルの作り方を教えるなどと言うことは許されない。
だから、何をするには規範は必要であり「活動にあたっては、健康安全に留意し・・・」などの文言が示されるのは当たり前である。

簡単に言えば、文部省はそのようなことをやっていいるところと言えるのであり「命令に背いたら・・・」というような機関ではない。

「教師個人の自由な発想と創意工夫による教育活動」というのは当然、児童生徒にも反映されるものであり「活動の自由がない学校」は建物が学校に見えても、中身は学校ではないと言える。

これを勘違いしている校長がたまにいて、事細かに校則を定めて立派な教育していると思っている。
それでは、校則ではなく拘束である。

例えば、私が望ましい校則というのは、服装の規定では「派手でないもの」とだけ定める。
あとは生徒が考える。そうすると、いろいろな服装が現れると思うが、人の服装を見て「あれでいいのか」などと批判が起こったりする。

細かく規定していないことを、いいことに、自分では派手と思いながらも派手な服装をしてくる者もいるだろう。
また、自分では派手でないと思っても、他人から派手だと言われる場合もあるだろう。

こういうことが大切だと思うのである。
なぜかと言えば、そうすることで「人により感覚が違うのだ」ということを自然に学ぶからである。
そして、生徒会などで問題を収束していくというのが、本来の生きた教育活動だと思うのである。

■まとめ

いちいち、それぞれの分野について、こうあるべきと解説する余裕もないので、この辺でまとめにしたい。

教育は末端の実践が一番大切であり、その実践は現場の教員と児童・生徒の活動から成っている。
そこには「自由な教育活動」が保証されている。

自由が保証されているということは、1000分の1までを問題にする部品づくりと違って「子どもが口に入れても危険のないような、しかも子どもの自由な発想を育むおもちゃを作ってください」と注文を受けているようなものである。

このように、広く自由度のある活動に於いては、学校、教師、児童・生徒の違いによって、様々な結果が出るのは当然なことと考えられる。

それら、各個性的な活動内において評価されたものが、他の個性的な活動と一緒にされて評価されること自体不合理なことと言える。

これが、本日の「絶対評価〜幅があれば違いは出る」の解説である。


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2014年07月04日

絶対評価の問題を解決するために

別々の集団(母集団)のデータをそのまま内申に使う問題は、すでに絶対評価を実施している学校でも話題になっているようです。

内申を公平にするには、地域の中学校の先生たちが集まって、テストを共通化するしかないと言っている人たちもいます。
しかし。関心、意欲、楽しさなどの言葉が評価の観点で出てくるというのは、生徒の心の中にまで介入することであり、そういうことを推し量ることがいけないとは言わないが、どのくらい的確に評価できるのか疑問である。

数学が好きでない生徒は、数学の時間は楽しくないだろう。
だが、先生に、楽しそうでないと見られたら、評価が下がるので楽しそうに演技をするのだろうか?
好き嫌い、楽しい楽しくないは生徒自身の問題ではなく、先生に原因があるかも知れない。

だいたいそんなことが、絶対評価できるのか?
言葉だけが理想に走り、実際どうやるのかを考えない空論を掲げているように見える。

自動車の教習場で、指導を受けている場合、指導員は技能だけをチエックしていればよいと思うが、そこに「自動車を楽しそうに運転している」とか「自動車に関心が高く、社会に役立てようという気持ちが見られる」などの項目があったらお笑いだ。

自動車学校と公教育の学校を同一視はできないが、そんな「お笑い方向」に進んでいるように見える。
日本の公教育は崩壊していくのではないか?

こういう教育に見切りをつけた親たちは、中身の良い私立や海外へと目を向けるような気がする。

■理想の教育?

教育の目的は、ひとことで言えば「人をつくる」ということになるだろうが、粘土細工で人を作るようなわけにはいかない。

心を育てるには、心を想像して超能力者のようなことをするのではなく、子どもの目の前の大人、すなわち学校では教師が子どもの心を揺さぶる人になることではないか。
そう、心を育てるには教師が努力すべきだろう。

こういうことを順に追っていくと、総理大臣が最も国民から尊敬される人物でなければならないことになる。
「教育改革は総理大臣改革」

■現実問題

そうは言っても、時が経てば子どもも年を取る。

大して参考にならない(おそらく、高校の先生の本音だろう)絶対評価なる内申書を廃止し、大学のようにセンター試験をやって、それを二次選抜の参考にしたらどうか?


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2014年07月03日

絶対ではない絶対評価

「絶対」という言葉がひとり歩きし、評価が絶対評価になっていないのに、絶対評価と認識してしまっているという誤りがある。
これは、少しの数学的思考を持って考えれば、容易にわかることである。

zetteihyouka_machigai.jpg


A、B2つの異なった環境の学校があり、それぞれの学校内に何人かの中学生がいるとする。
まず、一般に言われている絶対評価とは、それぞれA校内の絶対評価、B校内の絶対評価であり、A校B校共通の絶対評価ではあり得ない。
こんなことは、常識人ならすぐにわかることである。

もし、これがわからないという人がいるとしたら、いくつか現実の例を挙げてみるといい。
子どもに説明する場合に役立つかも知れない。

(1)通貨のドルはアメリカ$、オーストラリア$、ニュージーランド$とあるが、同じ$でも価値は同じではない。
それは、通貨のグループが違うからである。

(2)日本のプロ野球は、セ・リーグ、パ・リーグとあるが、選手の記録はそれぞれセ・リーグ記録、パ・リーグ記録である。試合グループが違うから当然である。
世界には野球チームがあるが、みなルールは同じである。
ルールは同じであるが、それぞれの国での選手の記録が、どこでも通用するものではない。
もちろん、それぞれの国での記録としては認められる。

このように、統計の常識から言って、統計を取るグループが違えば、記録は他のグループでは通用しない
もし、絶対という評価がグループを越えて通用するとしたら、図のXとYが同じ評価であった場合、XとYを入れ替えても同じ評価になるはずである。

■人間が評価する限り、誤差はつきもの

野球でのストライク、ボールの判定は横、高さともルールで決まっている。
しかし、個々の試合では、どうしても「審判のクセ」というものがあるので、すべての試合に於いて同じ判定がされたとは言いがたい。
それでも、許されているのは個々の試合内では、審判が公平に判定しているからである。

学校での成績も、同様なことが言える。
特に学校では、それぞれの学校ではその学校の先生が、試験問題を作るわけだから、なおのこと誤差は大きくなるだろう。

■評価の妥当性を検証する場合の混乱

相対評価の場合は、5、4、3、2、1の比率が決まってしまうので、起こらなかった問題が絶対評価に変わったことで大きな混乱を来すことになった。

相対評価の欠点は、比率が決まっているので、優秀者が10人いても5の配分が5人なら、5人しかつけられない。
例えば、10人が満点であっても、5人と決まっているので、何らかの方法で差をつけなければならない。
それが、今回の絶対評価に変わったことで、成績優秀者は優秀者として比率に関係なく10人に5をつけることができるようになった。
これは、生徒側としては幸せなことであるし、やる気も出ることである。

だが、成績(評価)の判定はプロ野球のように厳しく決められているわけではない。
自動車学校の場合は、教習員がいくら甘いと言っても、運転技能のない者を卒業させて公道を走らせるわけにはいかないので、そこは自然に限度というものができる。

ところが、義務教育の中学校にあっては、そういう自然な「しばり」というものもない。
(特に、最近では大学生でも、分数の計算ができない者がいる、と言われているぐらいだから。)

いっそ、中学校で成績をつける場合、分数の計算ができたら「2」、因数分解ができたら「3」、2次方程式が解けたら「4」などと明示的になっていたら、評価の絶対性は高くなると思うのだが、なにしろ義務教育は年数主義だからそうもいかない。

絶対評価に踏み切ったということは、100人中50人が「5」であったとしても構わないということである。
いや、100人が「5」であっても構わないわけである。

そうした時、教育委員会が評価の妥当性を検証すると言っても、具体的に如何なる方法で検証するのだろう?
「5が多すぎる」とか「1がいない」なんてことを言うのだろうか?
もしそうだとしたら、教育委員会は成績をつけられた生徒を、よく知っていなければならない。
つまり、教育委員会はすべての生徒の妥当と思われる成績を知っていなければならない。

そういう根拠なしに「あなたの学校は評価が甘い」などとは言えないはずである。
教育委員会が、そこまで言える強さを持っているなら、最終的な成績は教育委員会がつければいいことになる。

実際には不可能なことであるから、評価した先生が「評価には自信があります」と言えば終わりである。
そう言えない人は、教育委員会のご機嫌を損ねないように気を遣って、調整することになるのだろうか?
第一、優秀な成績者が多すぎるというような圧力をかければかけるほど、絶対評価と言いながらも以前の相対評価に近づくことになる。

このように詰めて行くと、高校入試を意識した中学校の評価は曖昧、いい加減といった印象を免れなくなる。
個々の先生によって、評価の違いが出るのはむしろ当然とも言えるもので、その違いをなくそうとするなら、先生の個性を否定することになる。
先生の個性が否定されて、子どもの個性が尊重されるわけがないと思うのだが。

このように、少し考えただけでも、絶対評価には矛盾が発見される。
だから、高校側が中学校からの内申を重視しなくなるのは当然とも言える。

教育委員会が変な介入をし、評価を動かすようなことがあれば、根拠の開示を迫られ、場合によっては、日本国憲法第14条「法の下の平等」で訴訟を起こされるかもしれない。
(アメリカのように、日本も「訴訟社会」になっていくだろうから、可能性は低くないと思う)

■妥当な絶対評価とは

統計の基本から言って、母集団(グループ)を一つにするしかない。

zettai_tadasiku.jpg


わかりやすく言えば、プロ野球の交流線のようなものである。

そうでなければ、高校側としては各中学校が生徒の順位を資料(内申)として出してくれた方がいいのだろう。
そうすると、以前の相対評価の資料の方がいいことになってしまう。

中学校の先生は、成績に敏感になっている保護者に対して、筋道の立った説明ができないと、不信感を持たれるだろうから、準備に怠りのないようにしておくべきである。


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2014年06月29日

内申をめぐる問題

zettaihyouka.jpg絶対評価というのは、ある基準に達すればだれでも、それなりに高い評価が得られるという点ではよい方法である。
だが「絶対」という以上、評価された価値は共通(同じ価値)でなければならない。
A校における「5」というのは、あくまでも「A校内」における「5」であるということ。
それはA校において「5」の評価をもらった者がB校においても「5」がもらえるかどうかはわからないということである。

それでも、場所やグループが違ってもスポーツの記録のように、100mを12秒で走ったというものなら、走った環境が公式記録として認められる条件に適合していれば、どこでも同じ価値のものとして認められる。

しかし「目標に達した」との抽象的表現の基準のもとでの成績は、そもそも判定する人の基準が一致していない限り、異なる学校での評価を全く同じとみてよいかどうか疑問である。

平たく言えば「学校差」というものである。
統計の常識から言っても、母集団が違うものの評価を同じ価値とすることがおかしいのである。

こういう評価が、高校入試に際して内申点として影響するとすれば、教師の立場としては、自校の生徒に少しでもよい内申点を持たせてやりたいと思うのは人情だろう。

そうでなくても、自分のところは実力からみて妥当と思う評価をしたとしても、競争相手となる他校は正直に評価するのか(水増しをしないか)と、疑心暗鬼になるのもやむを得ないだろう。
(「お前の学校は指導が下手だから、評価が低い」と言われたくない心理も同じようなもの)

それぞれの学校が絶対評価を採用することはいい。
しかし、繰り返しになるが、各校が勝手につけた成績を同じ器に入れて評価しようとするところに、根本的な誤りがある。

■内申が高校側から信頼されるものにするには

これは、中学校の定期テストを全中学校共通のものにするしかないだろう。

入社試験では、TOEICが600点以上というような条件をつけているところがある。
これは、TOEICで600点ならみな600点の力を持っているだろうという信頼があるから、条件として使われるのである。

内申点が信頼を得るためには、このようなやり方の試験での成績を採用するか、全中学校共通のテストによるしかない。

ということは、高校入試そのものが全中学校共通のテストになるようなものなので、内申点の比率が低くなるのもやむを得ない。

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2002年度から学習指導要領が改訂され、絶対評価の導入が記されたわけだが、まだ絶対評価に踏み切っていないところもある。
例えば、大阪府は最短で2016年よりと発表している。

絶対評価は生徒の頑張りを喚起するものでもあるが「それはいい」とメリットだけに目を奪われて導入すると、矛盾や混乱を起こし、中学校そのものの評定の重みをなくすものともなりかねない。

未実施の地域にあっては、そういう懸念を感じて検討を続けているのだろうと思う。


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2014年06月28日

内申書の価値

高校入試は、試験当日のテスト成績と内申書を合わせて合否を決めることになっている。
内申書というのは、在学中のテスト成績だけではない。
ここで、誤解のないように配慮して「成績」という言葉の意味を確認しておく。
成績(せいせき)
(1)スポーツにおける評価の指標のこと。
(2)営業職の挙げた成果のこと。
(3)学校における学習など活動成果についての評価のこと ⇒成績評価を参照
(4)試験における点数のこと。
フリー百科事典「ウィキペディア」より

ここで述べている成績の意味は(3)か(4)の意味になるが、(3)についてはまだ触れていない。
前記事(「成績が上がるとか上がらないとか言うけれど」,「何のための成績か」)を読んでいただいた方には、今まで(4)の意味で使ってきたことは、文脈から理解されていたと思うが、今回は(3)の意味も含めて考えてみたい。

内申書のイメージは、簡単に図で表すと以下のようになる。

naisin.jpg


この図での「成績」とはペーパーテストや実技テストのことであり「α」がそれに加わって「内申書」になると考えられる。
概ね、[内申書]≒[評定]と言えるのだろうと思うが、これが必ずしもイコールと言い切れないところに、何かが潜んでいると言える。

特に評定の出し方が、変わってから余計に見通しのよくないものになった気がする。

■試験、評定、内申書は公平でなければならない

ペーパーテスト一つをとってみても、変だなと思うことはある。
○×式や穴埋め式のテストは、学習の思考力を問うと言う点ではよくないと言われる。
それでは、なるべく文章を書かせる問題がよいかと言えば、そうも言えない。
そういうテストにすると、採点者の読解力に左右されるからだ。

採点者によって差が出るようなテストは、公平性に問題がある。
生徒にたくさん文章を書かせるテスト、特に考えを書かせるテストでは、採点者の意に沿わない答案は点が低いかも知れない。
採点が難しいテストというのは、問題作成者の自慢には、全くならない。

会社が人を採用するような入社試験なら、会社の考えに沿っているかどうかで配点の違いがあってもよい。
しかし、児童・生徒が学校で受けるテストはそうあってはならない。

そうなると、批判される○×テスト、いわゆる客観テストは採点者による差が出ないので、公平性を考えたら優れている。

【例題】

次の文を読んで、あなたの考えを書きなさい。
武道が必修科目になって、中学校は大変になっている。
なにしろ、部活動でもなく選択制でもなく、全員必修となれば教師が足りない。
そこで、急に教師を増やすために、短期間の講習を行い、指導者として認定することになった。
武道の教師がそんなに短期間で育成できるものだろうか。
この付け焼刃的な国の教育政策は、どうもいただけない。


[回答A]
教師が生徒を指導するために、勉強を拒んではならない。
そんなことでは、生徒から信頼される指導者にはなれないだろう。
教師が勉強しないではしめしがつかない。


[回答B]
武道の必修化の是非はともかく、短期間の講習だけで指導者の資格が与えるのは、如何にも拙速すぎる。
わずかな講習だけで資格がとれるというのは、何年も時間をかけて資格をとった人からみれば、バカにされているようでもあり、指導者の資格とは何だろうという疑問さえ湧いてくる。


このA、B2つの回答を読んで、読者ならどう配点するだろう。
少なくとも言えることは、Aの回答は文意を全く理解していない。
武道必修に対する考えは、個人個人、いろいろな考えがあってもいい。
しかし、読解力を問題にしたら、Aの回答者は0点である。
講習を受ける教師の態度など、全く問題にしていないからだ。

生徒の答案をみるとき、教師の読解力に難があっては、公平性にも問題があるが、優れたものを認めずよい芽を摘んでしまいかねない。

■成績に私情をはさんではならない

私がテスト成績の集計を出すコンピュータのプログラムを作った時、これは便利だと言った先生もいたが、賛成ではないという先生もいた。
結果は数値化された素点の合計をもとに、合計点の多い生徒から順に並んで出てくる。

数人の先生が、結果を興味深く見ていた。
「あの子の順位はここか?」
「オッ、○○がこんな上にいる」
など、感想があった。
普段目立っている生徒だが、意外に順位が低いというのがあって、それを見たある先生は
「本当は、これはもっと上だが・・・」
と言っていた。
コンピュータの出した結果が気に入らないようだった。
そして「こういう出し方はいかん」と言った。

なぜ?
と言うと「心が伝わらん」と言った。

しかし、ここまではあくまでテストの点の集計に基づくものだ。
このあと評定がつくまでには「+α」がある。
「+α」とは、宿題とか態度とかいろいろなものがある。

いろいろなものと言えば、他校の話だが、ある社会の先生はノートを提出させ、それも点数に加えるそうだ。
それが教育的にいいのかどうかは、私にはわからないが、ノート作りが得意な生徒には有利だろう。
しかし、ノートは加点しない先生にあっては、逆にノートで点を稼いでいた生徒には不利になる。

「+α」部分は先生の個性や学校の違いによって様々と言える。
特に見る人の違いによって差の出るものは、配点も違ってくるので、評価は学校や先生によって変わるだろう。

■高校の立場

内申書に関心が向くのは、高校入試に関係するからだ。
では、高校側は中学校の内申書をどう見ているのだろう。

中学校の成績(評価=(3))が変更されてからは、高校側の内申書の見方も変わったとみられる。
相対評価でなくなってからは、大きく変わったと言える。

東京都の例では、入試に内申が影響するのは3割ということ。
さらに、特別選抜枠というものがあって、1割ないし2割はこの特別選抜をするということ。
この特別選抜枠により、オール1でも都立の難関校に合格した生徒もいるそうだ。

では、特別選抜というのは、できない生徒でもよいと言うことかというと、そうではないらしい。
わかりやすく言えば、中学校の内申書を当てにしなくなったと言うことだろう。

高校としては、大学に行ける生徒が欲しいので、大学入試で点数の取れる生徒がほしい(のだろう)と考えた方がわかりやすい。
ノート作りがうまいとか、中学校の先生が「いい子」として評価した」つまり「+α」はどうでもよいのである。

だから、たとえ評定が「1」であっても、入試当日によくできた生徒が欲しいということ。

知人の高校教師に聞くと「中学校の内申?全然ダメ」という。

それにしても、評定1でも入試はよくできた生徒がいたということだろうが、よくできたのに「1」とはどういう状況だったのか興味がある。


リコーダーに関心のある方→コリーナミュージック


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2014年04月21日

自分の行動は自分の主張である

妄想よりドキュメンタリーの方が説得力がある。

自分の子どもの入学式を優先し、自分の勤務校の年休をとった教師のことが話題になっている。
これをいいか悪いかと言っても、白黒はつかない。
法解釈によってはっきりできることなら決着がつくが、この件についてはそうもいかない。
何も法令違反はないからだ。(もっとも、誰かが訴訟を起こせば別だが)

教師の年休は「公務に差し支えない限り」ということで許される。
と言うことは、校長が公務に差し支えるとは判断しなかったわけだ。

たとえ、教師本人が自分の子どもの入学式に出席したいと申し出ても、校長が許可しなければ、年休はとれないから、話題にもならなかっただろう。
だから、校長が許可したことで、この学校の教育方針を現実の行動で示したわけだ。
道徳教育は美辞麗句を言うことではなく、実践が大切という考えにたてば、この学校がこういう道徳を実践してみたことになる。

子どもに対するインパクト(影響)は、教師の外形的な言葉ではなく、教師自身の行動であると思う。
「他人を思いやる心が大切です」と言った場合、今回の教師の行動とは矛盾していないか?
「自分と他人のどちらを優先すべきか」と言った場合、今回の教師の行動はどちらになるのか?

どちらにしても、いい悪いの問題ではない。
その行動が、教師の主張である。
おそらく、子どもたちには「自分のことと、他人のことが搗(か)ち合った時、ウチの先生は自分を優先するのだ」という強烈なメッセージを与えたことだろうと思う。

だから、今後は他人を思いやるなどというポーズをとらないことだ。
教師としていう言葉を、心なく言ってもおかしくなるだけだ。
校長もしかりだ。

公園のベンチに座って弁当を広げた時、隣の人が腹をすかしていたら、自分だけ食べるわけにはいかないと思うかどうか。
自分だけ食べていても、誰に文句を言われるということもない。
しかし、人によって、隣の人にも分けてあげなければ気がすまない、という気持ちはどうして起こるのだろう?

これは、道徳の授業で習ったからということではないと思う。
親(大人)からどれだけ愛情を受けて育ったかの問題だと思う。

教師からどれほど愛情を受けて育ったかは、やがてその子どもたちの行動に出るのだろうと思う。

今日の教育がおかしいと思う時は、教師の授業で言う言葉と教師の行動が一致しない時だ。
でも、心にもないことを言わないと、研究授業の反省では叩かれることになる。

かくして、子どもが学習して身につける処世術は、教師の前だけ恰好をつくるということになる。

おそらく子どもたちは、教師の言行不一致がふつうと思っているのではないか?
その証拠に、言行一致の教師がいると「変わった先生」「珍しい先生」という評判が立ったりする。これは残念なことだ。
皮肉なことに「道徳の研究校になると、非行が増える」という言葉と重なってしまうような気がする。

私には自分の子、他人の子という区別はない。
恰好をつけて言っているのではない。
まあ、そう言っても、ほとんどの人は信用しないかも知れないが、私がなぜそう言えるのかといえば、私自身が実の親に育てられなかったのだが、その実の親でない人が、実の子ども以上に愛情を注いで育ててくれたからであると思う。

私がすべての子ども、逆境にある子どもに心が動くのは、私自身の心がそうしているのではなく、育ての親の心が私を動かしているような気がするのである。

他人の子を放っておいて、自分の子のもとに走った人と、私とはずいぶん育ち方が違うように思った(私の方がいいと言っているのではない)。
私の育ての親は、よく「よその子どもに・・・」という言い方で、子どもを分け隔てなく大切にするように言ったが、その言葉には説得力があった。なぜなら、親自身が実践していたからだ。
重ねて言うが、いい悪いの問題ではなく、心の問題、感じ方の問題だ。

もう一つ気になるのは、年休をとって入学式に参加してくれたということで、その子どもは親に対してどういう感情を持つのだろうかということ。

「お父さんありがとう?」
「お父さんのバカ?」

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2014年04月20日

教育改革と悪知恵

今日のNHK日曜討論は教育改革がテーマだった。
各党の教育担当者が出席して、討論が行われた。

各党の案をもとにした意見の対立があるが、結局、満点という案はないというのが、私の感想である。
その理由は、これまでの経緯を見る限り、どこかに抜け穴があり、悪知恵が働くからである。

いくら組織を変えても、本気で教育に取り組もうとする人が、教育関係者とならない限り、誰かが悪知恵を働かせて教育を形骸化する。
教育が他の行政分野と大きく違っているのは、対象が子どもであるということ。
子どもは弱い立場であるので、権利や不正の訴えが通りにくい。

日本の政治は、外国からも年寄りと子どもに冷たいと言われている。
これは、伝統として個人より組織を守るという風潮が強いせいではないかと思う。
(今話題のSTAP細胞もも、個人より組織を守るという方向に働いていないか注視していきたい)

子どもを守るのは第一には保護者なのだが、教育現場にいるわけではないので限界がある。
そうすると、子どもの立場を守らなければならないのは、現場の教師なのだが、その教師がヒラメ(※1)であったり、子どもを守るという正義感、情熱がなかったなら、誰も子どもを守る者がいないということになる。

※1
最近は、ヒラメ教師って何ですかという人が増えてきた。魚のヒラメは目が上についていることから、出世(上)ばかり考えて(見て)、教育に熱心でない教師が昔からヒラメ教師と言われてきた。


教育改革で最も大切なことは、本当に教育をやる気のある人材を教育関係に集めることだ。
難しいことだろうが、こういう方向を探らない限り、教育改革は表紙だけ変わる月刊誌と同じである。

教育を本気でやる気のない人は、立場の弱い子どものいる現場を好み、つまらない出世欲を丸出しにする。
出世欲を満たす常套手段は、プレゼントである。
プレゼントに弱い役職者も問題であるが、汚職にもつながるプレゼントは法的に厳しくすべきである。
(「500万円で校長を買った」などと言う噂が出ないようにしてほしい)

プレゼントは内緒で行われるのだろうが、そんなことは学校関係者の間では筒抜けになっている。
ただ、自分が密告者と言われたくないため、密告したところでかえって干されることを恐れて黙っているだけだ。

プレゼント(接待)がかなり公然と行われ、そういう習慣に麻痺していて、不祥事として全国的に話題になった大分県の例を忘れてはいけない。
(もちろん、もっとガードを固めろという意味ではない)

本日の日曜討論でも、大津のいじめ事件が冒頭に出てきたが、道徳の研究校でいじめが起き、そこに務めていた校長が後に教育長になったというのは、教育界が教育的でないことを証明したようなものである。

ヒラメ体質をなくすと同時に、年間5000人を越す教師が精神を病んで休職中というのも問題だ。
休職してしまっている人はまだいい。もっと問題は予備軍である。
どうみても、やっていること行っていることが、おかしいと思われる人には、子どものいる現場におかないことも大切だ。
私の知っている人で、とてもまじめな人が教師になったことがあるが、彼は学校現場の忙しさと、子どもの生活指導に悩んでおかしくなってしまった。
教育委員会は人事異動で、事務専門にした。その後、彼は本来まじめな人柄であったので、几帳面な人柄が仕事ぶりに反映し信用を得た。

また「おかしさ」のせいで、授業が授業にならず生徒は毎時間勝手に自習をしているという状態もある。

「最近変な人が多くなっていないですか?」の言葉も聞かれるが、ストレス社会がそういう傾向を高めているのかも知れない。
「あの人、ウチの病院に入院している人よりおかしいよ」と言われる人もいる。

「感動は心に悪い」などと言う人が、大学で教員養成をやっているのもおかしい。
(もっとも、そういう指導の中で、どのくらい教員養成ができるのか未知数だが)

いずれにせよ、子どもを取り巻く環境の改善が急務だろう。

制度をいじるなら悪知恵が働かないような制度を考えてほしい。


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2014年03月28日

選択しかできない思考の問題

近年、人工知能の研究が進む中で、現実の人間の思考の問題が浮上してきたように思う。
人工知能の場合、思考は論理的であるが、現実の人の思考場合は必ずしもそうとは言えない場合がある。
論理的とは言えない思考は、現実の人間の良さである場合もあるだろうが、他人を説得させる場合には非論理性を排除しなければならない。

論理性を回避するために、私は文系だからとかアナログ人間であるからという理由は受け入れられるものではない。
そういう意味でも、文系の大学で入試科目に数学がないというのは変だと思う。

■抽象的な文章の連続はひとりよがりに陥る危険性を持つ

自分の意見を展開する場合、私は「集合の概念」が必要であるということを強調してきた。
そうでないと、話の中身を特定できない可能性が出てくるからである。
例えば「中学校の先生」と言っても、その対象になる人は非常に多い。
「中学校の教師は○○だ」と言う場合、日本中の教師が全部当てはまるのか?、そうでない教師を知っているぞなんてこともあり得る。

文脈から、自分の学校の先生と限定できるような場合はいいが、単に「中学校教師は」と言い出すのはあまりにも乱暴と感じることがある。

抽象的な話の連続になるほど、要素が限定できない可能性を含みやすいので、いくつも選択肢があるのに自分の独断で要素を選択して、ひとりよがりの結論を導いているという可能性もある。

chusyou.jpg


だから、抽象の連続だけでなく、具体的なもの、体験を交えて論を展開して欲しいと思うのである。
そうでないと、まるきり妄想のオンパレードを紹介されているようなものになってしまう。

■選択思考しかできない人は問題だ

話し合いで問題を解決しようとするとき、出された案のどれかを選択するだけが解決とは限らない。

ある喫茶店で、モーニングを出そうと相談したとき、トーストにはマーガリンを塗るかジャムを塗るかという話になった時、半分ずつ両方を塗ろうという解決方法もあった。
これはわかりやすい例として出したのだが、どちらかの選択という思考しかできない人やどちらかに固執するという人がたまにいる。

こう言う人は、長文読解においては文中のある部分だけを選択して理解したつもりになっているので、作者の立場からすると「そんなことは書いていません」ということになったりする。

長文でなくても、いくつかの要素からできている文でも同じである。
これもしばしば例に出すのだが、全体として作者が何を言いたいのかわからない人がいる。
(私がそう勝手に想像しているのではなく、実際に試してみた結果である)

京で一番糸屋の娘
姉は十六妹は十四
諸国大名は弓矢で殺す
糸屋の娘は目で殺す

私のブログを読んでくださっている人の中には、またかという人がいるかもしれない。
しかし、長文読解の能力を知る小手調べとしては、わかりやすいと思う。

長文読解の能力は、特定の部分の選択ではない。
全体を融合する能力が必要である。
統合する能力と言ってもよいだろう。
いくつかの文を統合して解釈する能力は、高度な知的作業である。
つまり、高い知能を必要とするわけで、巷にあるコンピュータ(パソコン)の最も苦手とすることである。

■知的再生能力

「知的再生能力」とは適切な言葉がみつからなかったから、私が勝手に作った言葉である。
どんな能力か具体例を挙げてみる。

乗用車の車検制度は、昔は2年毎であった。
しかし、後に、製品の質がよくなったということから、新車に限り車検は3年間に延長された。
ところが、この意味が理解できず、車検は依然として2年毎という固定した考えから脱することができない思考の人がいる。
車検は2年と決まっていたのだから、3年でいいというのは法律を無視していいと言っていると主張し続ける人がいるのである。

こういう人は、次の問題もわからないかも知れない。

パソコンは昔は、プログラムも自分で作らないと何もできないただの箱であった。
そこで、プログラミング教室というものがあって、BASICという言語を多くの人が学んだ。
そのBASICに次のような構文がよく出てきた。

**************************

n=0

FOR i=1 TO 100
・・・・・・
n=n+1
・・・・・・
NEXT

***************************

(FOR〜NEXTはこの間を100回繰り返せという意味)

問題は「n=n+1」というところ。

初めはnとn+1がイコールで結ばれているとは何だと思う。
ところが、先生が「前にあるnは新しいnで、=の後のnは古いnです」と説明する。
つまり「古いnに1を足して、新しいnとしなさい」としていると説明すると、やがて大抵の人は理解する。

これは「古い車検制度を改め新しい車検制度にする」というのに似ている。

一応「n=n+1」についても説明しておくと、最後にnにはどんな数値が入っているかというと「100」である。

思考は経過の中でリフレッシュして、新たな情報を取り込まなければならないことがある。



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2014年03月13日

雲をつかむような話

某会社を訪問して雇用の話が出てた時、社長が「高校生の方がいい」と言っていました。
理由は「素直でいい」ということでした。

高卒がみな素直とは限らず、人にもよると思いますが、総じて言えることは「こけらが生えていない」ということです。
年とともに要らぬ苔の生えてくる人もいます。

その苔が何であるか、大人ならわかると思いますが、要らぬ苔は使う側(雇用者)からは使い難いわけです。
だから、素直な高校生が使いやすいということになるわけです。

と言うことは、年が多くてもすぐ偉そうな口をきいたり、態度にそういうものが出ていることのない人は、問題ないわけです。
むしろ、年は多いが謙虚で腰が低い人は、人生経験が多いことで役立つ場合もあります。

しかし、ハローワークへ求人を出してもそういうことはわかりません。
そこで人脈が大切になってくるわけです。

実際、私も70才を越えている人を、会社にお願いしたことがあります。
「仕事ができれば何才でもいいです」
と言われ、雇ってもらったことがあります。

初心忘るべからず

は年を取るほど大切と思います。
人によっては、年を取ると何か自慢したがる人がいます。
時間があればつきあって聞いてあげますが、中には「雲をつかむような話」をする人もいます。
それは、実体験がないのにする話なので、つかみ所がないのです。

始めは抽象的な話や一般論から始まってもいいのですが、次第に話が絞り込まれて具体的になることが必要です。
聞いている方が
「そうなるとは限らない」
と思うような話しでも実体験なら焦点が合ってきます。

ところが、話の続きが、いろいろな想像の可能性を含んだものであると、どうやっても焦点の合わないレンズと取り組んでいるようで、聞かせられる側としては疲れます。

ブログでもそうですが、内容はともかく実体験に基づいた話はピントを感じるので疲れないし、生々しさは伝わってきます。
だから、結果云々だけではなく、教育実践の話に私は興味を持ちます。

一般論や空想の話は優れた教育書やSF小説の方を選びたいと思います。

--------------------------------------------------------------------------


ブログを、読みやすい、見やすいものへと試みています。
そこで、
こちらのブログで試行しつつ発展していきたいと思っています。
まだこれからですが、よろしかったらお立ち寄りください。
http://education.fp-guide.com/





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2014年02月26日

貧困の連鎖

この国のことで気になることの一つに貧困の連鎖がある。
子どもたちの将来が気になる。

私の育った頃は、家は貧しくても国立大学だったら、親にほとんど負担をかけずに卒業できた。
ところが、今はそういうことが不可能な時代だ。

シングルマザーも増えて、子どもを二人抱えて、月10万円そこそこという母子家庭が増えている。
また、そういう親に限って労働時間も長くなっているから、子どもとの時間が短くなっている。

問題は、教育費がかかるようになっているので、収入の少ない家庭の子どもは勉強して、進学して貧困から抜け出る手立てを塞がれていることだ。
だから、貧困は依然として貧困という、貧困の連鎖を断ち切れない。

【参照】
第2期教育振興基本計画、教育予算のOECD並水準を断念、財務省反発で第2期教育振興基本計画、教育予算のOECD並水準を断念、財務省反発で

日本の教育費は、比較可能な31カ国で最下位。高等教育分野だと日本は0・5%で、OECD平均(1・1%)の半分に満たない。

教育への公費 日本また最低

■子どもを取り巻く環境の悪化

今や日本の子どもの6人に1人が貧困という状態だ。
しかも、貧困状態を抜け出る手立てが閉ざされている。
給食制度が、1日1食を保証するのはせめてもの救いだ。
家庭で親一緒にいる時間が少ないのは、精神的安定感を欠くことになる。

子どもが一番精神的に落ち着いて学習できる場所は、台所だそうだ。
そういえば、学習机がある家庭でも、子どもはそこで勉強せず、台所へ用具を持って行ってする。
それは、台所には母親がいるからだ。
その母親が、仕事で帰宅が遅いので、常に子どもの心は不安定。

中学生になると、勉強のために離れを作ってやる親がいるが、私の経験ではこれで勉強をよくやるようになった子どもを見たことがない。
それどころか、夜、部屋を抜け出し連れと深夜徘徊をするという例を見た。

学校で頼りになる大人は先生だが、その先生もどうかすると変な人がいる。
変と言っても、個性豊かで変わっていると見られている人はいいが、いわゆる変態や頭のおかしい人がいるとしたら大変である。
精神的に病んで休職する先生が、年間五千人ほどいるという。
休職者がそれぐらいいるということは、予備軍もいると考えられる。
本当は休むべきなのに、惰性のように勤めている教員を私は知っている。
授業にならないので、子どもは先生を無視して勝手に自習をしている。

先生にとって教科の専門性、教え方の上手下手も大切だが、それ以前に、おかしくない人がいることの方が大切だろう。

職員室に放火した先生もおかしいが、刑事事件になったとしても、精神鑑定が要求され、普通ではないと判断されたら刑事事件にはならない。
罪にならないということだが、その代わり治療をすることになる。

■教育への投資減は国の将来を暗くする

コスタリカは国家予算の20%を教育費にあてるということが、憲法に定められているそうだ。
あまり紹介されることのない国だが、住んだことのある人の話では、教育に投資している効果は感じるとのこと。
田舎道を歩いていると、農作業をしている人が「これ持っていくか?」と声をかけてくれたという。
車が通りかかると「乗って行くかい?」と誘ってくれたそうだ。
そして、翌日にはその人が家まで迎えに来てくれたという。
教育は国民の知恵を高め、GDPを増加させるが、それだけでなく、心を豊かにする。

今の日本は若者で正社員になれない人も多く、収入も少ないので年金保険料を払う余裕がない。
それでも、若いうちはいいだろうが、年金保険料を払っていないので、将来年金がもらえない。

今でも、年金は十分と言える人は多くないだろうが、将来は年金ゼロという人たちが増えると予想される。
これは、治安の悪化をもたらすだろう。

どこかに、この国の希望を見出したいが、どうみても良くなるとは考え難い。

子どもの未来、若者の未来にについて、政治家は真剣に考えているか?




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2014年02月11日

実践の場がイメージできない

人を呼んでパーティをやろうという時、自ら調理をするか出前で済ますか。
どんな違いがあるのだろうか。
実践という視点で考えてみると、ご馳走したと言っても、出前では自分で料理を作っていない。
だから、調理人がどのように料理を作っているのかわからない。
このように、私たちの生活の中には「出前」のような環境が増えていて「わからない部分」も多くなっている。

子どもの頃を思い出すと、親が家庭の年中行事を心をこめてやってくれたことが、なつかしい。
ぼたもちを作る時は、前日から時間をかけて小豆を煮たり、大変に手間をかけて作ってくれたものだ。
日曜の朝早く、寝床にその小豆のにおいがしてきて目の覚めたのを覚えている。

そういう、手間をかけたことが、親から子へと「実践」が生々しく伝わっていく。
最近は家で餅つきをするところも少なくなってきただろうが、毎年その時期になると呼んでくれる家が私にはある。

石臼があり、杵があり、打ち下ろす姿や湯気、つきたての餅を女たちが加工する姿を毎年見ている。
昔、餅つきが珍しくなかった頃は「餅つきの絵」が冬休みの宿題になっても、子どもたちは困らなかっただろうが、今はそんな宿題が出たら困ってしまうだろう。
もしかしたら、電気の餅つき機の絵を書いてくる子どもがいるかもしれない。

今の世の中、餅を食べたいと思った時はスーパーへ買いに行けばよいので、いつでも好きな時に食べられるという感覚がある。
古い人間は「餅」という言葉を聞くと、餅つきの場面を想像して「大変」という感覚が蘇ってくる。

家によっては、買ってくればすぐ間に合うのに、わざわざ手間をかけて餅つきをするという習慣を残している。
それは、ただ「餅を食べればよい」ではなく、一連の行事に大切なことが含まれていることを知っているからである。

こんなわかりきったことは、大人向けに言うことではないが、この「大切なこと」が次第に失われていくことで、いつしか「実践」も失われてきたと思うのである。

つまり、今の世の中「やりました」と言っても実際はやっていないので、結局、実践がないということになるのである。

まあ、別にいいじゃないかという人がいるかもしれない。
しかし、それが人との交流で問題になってくることがある。

それは「お手伝いができない」ということである。
実践がないから、お手伝いができないのである。

私は演奏を頼まれると、大抵は自前のPAを持っていく。
招待する側は気遣って手伝おうとするが、どんな風に用意するのかわからないので、手伝いようがなく、ただ見ているだけである。
これは、特殊な例になるかも知れないが、最近は、特別なことでなくても手伝いや準備のできない人が増えてきたような気がする。
それに反比例し、偉そうな人は増えた気もする。

自分は実践していないのに、実践したと話す人。
(出前を頼む電話をした,という実践はあると言えるが)
実際は自分でやっていないので、どんな準備をしたらよいか、どんな危険の可能性があるかイメージできないわけである。

イメージできないから、実践の寸前まで話をしても途中でパタリと話が止まってしまう。
言い方を変えれば、話の終わりが抽象的である。

実践の段階まで具体的に、イメージできて話のできる人が真の実践者であると思う。
細かいことを言えば、チョークの準備は?色の種類は?等々考えられるかどうか。

だが、長年経験してきたと言う人の中にも、本当に実践してきたの?
と思えてしまう人もいる。
何十年やってきても、実践の環境から学べない、吸収できない人だ。

だから、実践は経験の長さだけでは語れない。

昨年は、一体この人は何処に住んでいたのだろう、もしかしたら別の惑星から来たのだろうかと思うぐらい不思議な人に会った。
ただ、経験値だけ言うなら数十年はあるだろうが、自慢そうに話す授業を見に行ったら、とても授業と言えるほどのものではなかった。

授業は問題外だが、私が疑問でならないのは、一体、この人どこで生活していたのだろうかということ。
そのぐらい、社会常識にも欠けていた。

話が冗長になったが、締めくくりは「手伝える人になろう」と言うこと。





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2014年02月05日

情けない大学

あってはいけないことですが、学校の先生の不祥事が時々報道されます。
当然、当該の先生の責任はあるのですが、監督責任、管理責任として教育委員会が謝罪をします。

昨年はネットを通じて誹謗中傷がありましたが、根も葉もないことをブログで書き続けた人がいました。
自分のパソコンの調子が悪いのも、遠隔操作でいたずらされているからだとか、プロバイダーの名前が攻撃目的のプログラムだとか、とにかくいわゆる妄想としか思えない態度で書きまくっていたブログ。

どこまで過熱するのだろうかと静観していたが、いっこうに収まる気配はない。
もちろん、こちらは全く何も関わっていない。
いや、少しでも反応すると、関わったと言われかねないとおもったので、一切無視していた。
(こういう輩には相手をしないで、せっせと証拠収集した方がいいと思います)

しかし、この普通ではない状況に見かねたと思われる第三者の批判サイトや、掲示板投稿が現れるようになった。
それらの批判はやや過激とも思われたが、第三者からも不愉快に思われている状況を冷静に判断することができなかったらしい。
自分にとって都合の悪いことは、全く関わっていない私のせいにする一方。
警察に通報とかの言葉をちらつかせていた。
それなら、通報してしかるべき処置をすればよいのに、しなかったのは自信がなかったのだろうか?

私が思うには、誰それから被害を受けていると自信があるなら、ためらわず警察に通報して処置してもらった方がよいと思う。
最近問題になっている体罰問題もそうだ。
殴られたら、即、警察に届けるのがよい。
(その前に、診断書をとっておくべき)

前にも書いたが、根も葉もないことを勝手に書いているところまでは静観していたが、名前までネット上に流したので営業妨害になると考え、まず、当該の者の大学に通報した。

確実にその大学へ勤務している者かどうか確認するためだ。
ネット上のことは「なりすまし」の可能性もあるからだ。

かなり時間がかかったが、大学当局は事の真相を調査したようだ。
そして、大学自体は当該の者(先生)の一人芝居(妄想?)であると確認したようだ。

情けないのは、その後の大学の態度。

「今回のことについては、大学は関係ありません。個人と個人の問題です」

と一方的に逃げ腰の文言が並んだ。
職員だから責任がないわけがない。
監督責任はある。

根も葉もない誹謗抽象をしたのだから、名誉毀損の可能性がある。
これは刑事事件だ。

大学は
「個人の問題ですから、しかるべき機関を通じて対処してください」

なんと、大学は監督責任を放棄して、しかも自分のところの先生を守ろうとしないで、見捨てた態度を取った。
とにかく、大学は関わりをもちたくないらしく、当該の先生のブログの削除を命じたらしい。
いっきにその先生のブログが消滅した。
証拠は保存してあるので、もう遅いが。

じゃあ、名誉毀損で訴えるか?
調べてみると、名誉毀損で訴えられ、そのあと民事で賠償責任を問われ、裁判所から600万円の賠償を命じられた範例があった。

それにしても、こういう大学へはどういう者が願書を出すのだろう?
そして、どんな授業風景で、先生は学生に何を言っているのだろう?

「腐っても鯛」で、一応卒業すれば「大学卒」か?

おもしろいのは、その先生の信者みたいな人がいて、その先生の意志を受け継いでいるのか、懲りないことを続けていることだ。

「・・・ではありませんか?」

までは許されるが

「・・・だ」

とか「決めつける」言葉があれば同罪だ。

訴訟に出るか?

もっとも、訴えられた側が、責任能力が問われ「責任能力なし」との判定が下れば罪に問われないが。

そういえば、今日のニュースで、19年前に息子を殺害されたが、逮捕された者が責任能力がないのではと病院に収容されているので、未だに裁判が開始されないとの報道があった。

今、社会は、おかしな人が増えていると言われているので、注意が必要だ。





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2014年01月29日

他人より自分

「他人より自分」と書くと、なんだ自分さえよければというエゴの話かと思う人は、妄想傾向があるかもしれない。
全くそんなことは言っていない。

私が今日、書くことは「隗より始めよ」を忘れないと言うことである。
これは、もちろん自分に対して言っていることである。

同窓会で教え子に会って、恥ずかしい思いをする。
昔を懐かしんで会ってくれる教え子たちには感謝している。

実はこの「教え子」という言葉は好きではない。
何か「上から下」というイメージを感じるからだ。

もう、社会に出たら教え子という関係もないと考え、同じ土俵で社会活動をするというのが私の考え。

私の音楽は趣味で、いわゆる学校の音楽の先生ではない。
ただ、音楽の先生とレッテルを貼る人はいる。

いちいち弁解するのも面倒だから、黙っているが、本来、仕事は肩書きではなく「いかにいい仕事をするか」だと思っている。
趣味だからと言っていい加減でいいという考えはない。

私はある時期から、どこかに所属してその団体の評価によって栄光を享受するという世界から脱した。
何をするのも「個人責任」が気分がよい。

今は市の職員から成るバンドの指導をしているが、風の便りに聞こえてきたのは「あんな奴に市民の血税を使っていいのか」という声があったそうだ。
もちろん、その声に同意する人が多くなれば、この仕事はないだろうが、今のところそんなことはない。

すごい指導者が出てくれば私は追われるかも知れないが、実力で仕事をするこういうスリルのある仕事は好きである。
この方が、いつも自分が活性化するような気がする。

偉そうなことを言いたくなったら「隗より始めよ」が私の座右銘である。


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2013年12月03日

ガラパゴスの良し悪し

ガラパゴスは独特の進化をとげ、それが幸いしたというのがもとの意味だが、今日では良い意味に使われることは少ないようだ。

日本の携帯電話はガラケーと言われ、日本独自の規格のため海外に市場を広められなかったと言われている。
私はそのガラケーを使っている。
ここのところスマートフォンの押されて影の薄いガラケーだが、私は便利に使っている。
軽くなり、バッテリーの持ちもよくなって、ガラケーの進化を実感している。

ところで、最近、塾経営者が授業を見てくれというので行ってみた。
衝撃だった。
それは、とても授業と言えるものではなかったからである。

塾講師は以前から教科に自信を持っており、自分の行う授業についても誇りを持っていたようである。

■ガラパゴス化における停滞、退化

ガラパゴス化の良さは独自の進化である。
しかし、ガラパゴス化は時に停滞や退化であったりする。

自分こそと教科の専門性や授業に自信を持っていても、それは外から見たらとんでもなくお粗末なものであったら、ガラパゴス化の悪い面、すなわち停滞や退化が起こっていたと言えるだろう。

私塾には設立基準も専門性も必要としていない。
必要なものは、自分にもできるという自信だけである。

とかく、学校の先生は批判されやすいこの頃だが、学校の先生を批判している人が、ボランティアの要請などで○○教室の講師をした場合「あなたが批判するほど、学校の先生は酷くないですよ」というものもある。

ちょっと不思議に思うのは、普通に社会生活しているのなら、周りから情報を得てある程度の常識は身についているだろうと思うのだが「一体、この人は今までどこで生活していたのだろう?」と思える人がいることだ。

■情報収集能力の違い

MacintoshがDTPという分野を作り出したが、これは印刷分野に革命をもたらしたと言える。
パソコンとソフトがあれば、商用印刷の版下が誰でも作れるようになってしまったからである。

私もその世界を知ってからMacintoshを買ったのだが、使い出してしばらくすると、今まであまり気にも止めなかった生活の周りにある印刷物が気になるようになった。
「なぜ、あの印刷はきれいに見えるのだろう?」と感じたとき、一番始めに知ったのがカーニングという言葉だった。

この経験から、世の中に情報はいっぱいあふれているのだけれど、関心があるかないかで情報を取り込むことができるかできないかに差が出るのだろうと思うようになった。
このことは、誰に対しても情婦が平等に発信されていても、受け取る側の能力の違いによって、情報の吸収度は違ってくると言える。

だから、同じように暮らしていても、まるで、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のような人に会ってびっくりすることがあるのだろう。

■情報収集能力は学力の一種

これらのことを考えてくると、情報収集能力は学力の一つにあげられると思うようになった。

学校教育の場で、情報収集能力を高める指導は、どのくらい行われているのだろう。
あるいは、情報収集能力を高めるには、どんなことをすべきか、ということも気になることである。

太陽光から電気エネルギーに変換する技術に関心のある時代だが、変換効率は最も優れた製品でも20%に達しない。
アナログアンプの変換効率は50〜60%ぐらいだが、最近話題になるデジタルアンプは90%を超える。

これと同様、発信された情報を何パーセント受け取れるかと言うのが、情報収集能力のようなものだろう。

■学校が停滞したガラパゴスや退化したガラパゴスにならないように

学校は子ども主体であるから、一般社会からやや隔絶された特殊な社会と言える。
特殊な社会は特殊な変化をする可能性がある。

その変化が、元禄文化のように日本独自の文化をもたらしたようなものであればよいが、停滞や退化した変化を来すのであれば問題である。
そういう意味では、学校は変な鎖国を行わないようにしなければならない。

特に、学校関係者以外に「あなたたちは、学校を知らないでしょう?」という言葉を武器にしないようにしなければならない。
そんなことを言えば「あなたたちは、厳しい企業の現場を知らないでしょう?」という言葉が返ってくるかも知れない。

一流企業では教育に力を入れている。
業績に直結するので、教育担当者の真剣さはかなりのものである。
教育を受けたもののその後の成績はそうなっているか追跡するし、教育する側の者も絶えず評価されている。
思わしくなければ、すぐに担当を変えられる。

教育効果を高めるためのIT機器も使い方も先端を行っている。
講師も時に100万円台の講師料をとる講師を呼ぶことだってある。

今日、教育について企業から学ぶことが多いのは、むしろ学校の方かも知れない。
国を活性化するためにも、学校と企業の垣根を取り払い、柔軟な情報交換ができるようにした方がよいのではと思う。


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posted by edlwiss at 20:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年08月21日

個人主義と利己主義

個人主義と利己主義の意味を間違って解釈している者が、なぜ、こんなに多いのだろうかと思う。

何か言葉があると、その言葉の意味は、自分が勝手に決めるものなのだろうか?

そう思わざるを得ないほど、この個人主義と利己主義の違いがわかっていないと思われる意見が多い。

kojinsyugi.jpg


そもそも、個人と言ったら、この地球上の人間はみな、それぞれ個人なのだ。

だから、個人の尊重とは「自分も個人」「あなたも個人」「自分の知らない人も個人」とみな個人である。

それゆえ「個人の尊重」と言ったら、個々の人々、つまり地球上の人はみな尊重されるわけである。

自分さえよければと言う考えが、個人主義ではない。

この地球上に暮らしていて、自分さえよければいいという生活など成り立たない。

それは、自分以外の人たちとは、みな直接、間接に関わりあっているからである。

今自分が食べている米も、多くの人の手を経て存在しているのである。

もし、自分だけという考えを徹底するのなら、全く他人の力を借りずに、生きるための手立てはすべて自分で賄わなければならない。

一歩外に出れば、自動販売機があり、ジュースが飲みたいと思えば、コインを入れてボタンを押せばよい。

しかし、この作業を自分だけで完結しようと思うなら、どこかの土地に果樹を植え、果樹を育ててジュースを絞るところまで行う必要がある。

しかし、現実の社会は多くの人の分業で、私達はボタンひとつ押すだけでジュースを得られるという高度な社会を作ったわけである。

個人主義の理解を深めるということは、社会を作っている成因の一人一人(個人)が他人のために役割を負い働いているということを、子どもたちにも教えていかなければならないことだと言える。

ごく狭い考えで、自分だけの利益を考えたら、他人からのサービスは受けられないのだということを理解させる必要がある。

コインを入れず、ジュースを飲むという恩恵にあずかりたいという考えが利己主義であり、そういうことをしたら、ジュース工場で働いている人たちに給料が支払われないことになり、工場は閉鎖になる。

そして、自分もジュースが飲めなくなるのだということを、近視眼的な思考しか持たない人に教える必要がある。

■個人と団体

kojin_shyudan.jpg個人の反対語は団体である。

だから、個人の尊重の反対は団体の尊重である。

団体の尊重とは、団体の存続を何をおいても再優先とする考えであるから、個人か団体かの選択を迫られた場合は、団体存続のためには個人の犠牲もやむを得ないという考えである。

日本国憲法では、国民に主権があるとされている。

これは、一人一人の国民が主権を持っているということであり、国民の一人一人が主体的に国家の動向を決定する権利を持っているということであり、これは個人主義の別な表現であるとも言える。

「国民はみな最低限度の生活が保証されている」というのも、国民は一人残らず、個人として大切にされているということである。

個人主義の対局にある集団主義、あるいは全体主義により、みんなのために一人が犠牲になって自殺するというようなことがあってはならない。

しかし、ドラマでは会社のために一人のサラリーマンが自殺するような場面がある。

集団主義や全体主義に賛同する人は、もしかしたら自分がみんなのために死ぬというようなことは考えていないのかも。

戦前の日本は、天皇を中心とする国家存続のためには、個人が犠牲になることも可とした社会ですが、戦後の日本は国家のために誰一人犠牲になってもいけないという社会です。

最近、列車とホームの間に墜落した女性を助けるために、乗客が力を合わせて列車を押している姿が話題になりました。



この話は海外でも評判になりました。

これこそ、みんなで一人を大切にする個人主義のお手本とも言えるものでしょう。





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posted by edlwiss at 14:41 | Comment(3) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年05月28日

就職できんかったら・・・

高校へ吹奏楽の指導に行っている時のことです。
職業高校ですから、就職希望者は多いです。

どこへ就職するかという話しになった時

「うーん、・・・私、就職できんかったら大学へ行く・・・」

と言っていました。

昔では考えられないことです。

今は就職が難しいのなら、大学へ行く時代ですか?

何でも「ボーダーフリー」とか言う大学があって、予備校がランキングを出している中で、事実上ランキング外ということだそうで「名前だけ書けば入れる」なんて噂もあるとか。

しかし、入学は容易でも勉強しなければ卒業できないというならいいですね。

ランキングより中身ということでしょう。

卒業生がどういう経過をたどっているかで想像できるでしょう。

大学は何で選ぶのでしょう?

建物ですか?

設備も大切ですが、第一は先生でしょう。

勉強は良い先生を求めて行くということなのだと思います。

となると、大学はいかに良い先生を獲得できるかではないでしょうか。





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posted by edlwiss at 09:28 | Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題

2013年05月26日

先生は常識人であるべき

当然のことです。

頭は帽子をかぶるためにあると言うような発言は論外。


「個性は持つべきか、持たざるべきか」なんていう発想がおかしいように、何かをすることが教養ではなく、教養のある人が何かをするということです。

教養を身につけようという姿勢は大切ですが、身につくかどうかは、栄養素のあるものを食べたとしても、栄養になるかどうかはわからないようなものだと思います。

学歴が高いから教養があるとも言えませんし、教養はその人の生き方に関わってくるのでしょう。

当たり前の道理を、当たり前として発言できないようでは、非常識でありそもそも先生の出発点にすら立っていないのだと思います。

他人のことを知るのも限界がありますが、それをまるでその人の中まで入り込んでわかったような発言をするのは、非常識を超えた異常の段階だと思います。
posted by edlwiss at 07:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題

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