2010年05月03日

再び、教育勅語を考える

にほんブログ村 教育ブログへ
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、教育勅語の口語訳が次のように載っている。

12の徳目

1. 親に孝養をつくそう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしもう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめよう(徳器成就)
10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くそう(義勇)


この口語訳には異議をとなえる人もいる。

では、上の口語訳が適切でないとしても、つまり教育勅語と切り離して考えたらどうだろう。
この12の徳目に何か問題があるだろうか?

教育勅語が戦前の国体維持のために利用されたということで、反対する人がいるが、この文章に戦前の臭いがあるのだろうか?

一体、どこに問題が隠れているのだろう?

それに応えられなければ、熱心に教育勅語復活をとなえる人たちを納得させられないだろう。
posted by edlwiss at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳

2010年02月11日

心が大切だと言うのだが

にほんブログ村 教育ブログへ

もうずいぶん昔の話になるが、親しくしているパソコンショップで、コンピュータの研究会の定例会を行っていた時、入会したいという青年が来た。
身長が175cmぐらいで、立派な体格の青年だった。

自己紹介をしてくださいと言うと

「初めまして、私、川瀬 流(かわせ ながれ)と申します」

と挨拶をした。
経歴などを聞くと、イギリスへ留学していたなどということを話した。
はっきりした言葉遣いで、礼儀も正しかった。

誰もが入会に異論はなかった。

会合が終わり、私が店長と話していると、店長は何だか納得できないという顔つきをしていた。

何だろうと聞いてみると

「ちょっとトイレを見てきます」

と言った。

私もついて言ったら、店長は「やっぱりそうだ」と言いながら、トイレの窓を閉めた。

店長は、川瀬 流という男を疑っていたのだ。

男は入会すると装って、店内を観察し、閉店後忍び込むためにトイレの鍵をはずしておいたのだ。

それを見破った店長はさすがだと思った。
私とは人生経験が違うと感じた。

それはそうと、怪しいと思えば、川瀬 流(かわせ ながれ)なんて名前からして、いいかげんである。
どんな偽名にしようかと考えたとき「川の流れ」から思いついたんだろう。

自分の人生は自分で決める、という権利があると思うが泥棒人生はよくない。
でも、よくないと言っても、それは一般的な話であって、本人の価値観からいったらそうでもないかも知れない。

まじめに働くより、人目を盗んで生活をした方が楽だと考えているのかも知れない。
そういう人間を、泥棒人生はいけないとどう教育するのか?

「悪いと分かっているだろう」と言ったって通用しない。
「はい、悪いことは分かっています」
と返事をするだけかも知れない。

悪いと分かっているが、オレはこの方がいいと考える人間をどう教育するのか?


aamuzyo.jpgこんなことを考えていると、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を思い出した。

泥棒のジャン・バルジャンが刑務所に入れられ、刑期を終え出てきたのだが、彼は寒空で腹が減っていた。
ふと目についた教会へ入ってみると、ミリエル司教がごちそうしてくれた。
空腹が満たされると、銀の食器に目がくらんで、お礼も言わず食器をふところに入れこっそり抜け出す。

だが「あいつは根っから悪いヤツだから、また泥棒するに違いない」と出獄直後からつけてきた、ジャベール刑事に捕まり、ミリエル司教の前に突き出される。
ジャン・バルジャンはまた刑務所行きを観念する。

ところが、ミリエル司教は

「その食器は、私がその人に差し上げたもので、その人が盗んだのではありません」

と言う。

この言葉に、ジャン・バルジャンは目が覚めたように衝撃を受ける。
以後、彼は人が変わったようになる。
そして、ある市で市長にまでなる。

心の大切さがいたく伝わってくる話である。

lemizeraburu.jpg
ミリエル司教は偉大な指導者である。
お説教をしたわけでもない。

でも、一人の男の心を動かしたのである。

指導者たるもの、美辞麗句を並べたところで、相手の心を動かせるわけでもない。

人の心を動かすには、感動が大切である。
posted by edlwiss at 14:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳

2009年07月16日

国民道徳協会とは?

教育勅語の訳として、しばしば国民道徳協会という名前が出てくる。

そんな協会があるの?

と思ってネット検索しても出てこない。

よく調べていくと、佐々木盛雄という名前があった。

どうやら、教育勅語の国民道徳協会訳というのは、佐々木盛雄という人物の訳らしい。

教育勅語の原文は以下である。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
  御名御璽


これを国民道徳協会(佐々木盛雄)訳によると、

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合せて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、身命を捧げて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変らぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。


となっている。

教育勅語の原文はわかりづらいので、口語訳に頼りがちである。
しかし、訳というものは、本当に正しく訳されているのか、時に疑ってみることが大切である。

できれば、時間がかかっても、原文を自力で訳してみようとすることも大切と思う。

・どの言葉をどう置き換えているか?

・原文にないものを加筆していないか?

・原文にあるものを削除していないか?

・意訳の度が過ぎていないか?

これらについて、注意深く検証してみる必要がある。

実際、この国民道徳協会(佐々木盛雄)訳については、疑問視する人も少なくない。

ところで、佐々木盛雄とはいかなる人物であろうか?

佐々木盛雄を調べていくと、池田勇人内閣の内閣官房副長官の欄に名前がある。

そして、自由民主党同志会に於ける主なる会合というところの記事に、
昭和53年〜61年まで
(佐々木盛雄専務理事のもと)9回に亘り日華親善訪問。故蒋介石総統の墓陵参拝。(報怨以徳)報恩に感謝の祈りを捧げた。中華民国政府主催歓迎夕食会開催。政府要人多数出席、又反共の闘志谷正興博士の講演も拝聴。

というのがあった。

さらに、大日本愛国党のホームページに、佐々木盛雄の名がある。

そうすると、大日本愛国党とは?
という疑問が出てくるが、先の教育勅語訳とこれらの団体、関連人物の行動、思想を調べると、何かあるかな?
と考えてしまう。

引き続き調べてみよう。

また、国民道徳協会(佐々木盛雄)訳の何が問題とされるのかについても検討してみよう。

にほんブログ村 教育ブログへ

ブログランキング

人気blogランキングへ



キャッシング無料案内→おまかせ紹介君





posted by edlwiss at 23:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳

2009年07月15日

道徳教育の指導はどうする

■道徳教育に対する認識の誤り

最近、教育勅語復活の意見が多いと感じる。
そして、教育勅語復活をとなえる人たちは必ずと言って良いほど、日本は戦前のよい教育を捨ててきたと言う。

その人たちは、教育勅語にある12の徳目を並べる。

1. 親に孝養をつくしましょう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12.正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

この12の徳目のどこがいけないのだとも言う。

それで、そういう人たちに

「それでは、その教育勅語(12の徳目)をどのようにして教えるのですか?」

と質問すると、そこから返事が返ってこない。

たまに、返事が返ってくると

「屁理屈を言うな!」

というようなものばかり。

現役の先生は、道徳教育の指導が他の教科の指導と違うということは、当然知っていることだと思う。

暗記することで、事足りるという部分のある教科と違って、道徳教育は望ましい行動を暗記することで、目標が達成されるものではない。

別な言い方をすれば、道徳教育は、望ましい行動が実際の生活において現れなければ意味がないのである。

こんなことを現役の先生に言うのは釈迦に説法であるが、それでも、古い先生(惰性で教員という仕事をやっている先生)においては、道徳の指導というと、その時間に先生(指導者)が子どもに向かって「・・・の場合は・・・のような行いをしましょう」とか「・・・する子がよい子です」などと言うことを必ず言わないと、だめな授業との烙印を押す。

文科省の学習指導要領にも、道徳教育においては「数値的な評価はしない」と明記されている。
それは、道徳教育の特質を考えてのことである。

当然、道徳教育の評価とは、道徳の時間で行えるものではなく、道徳の授業の結果が日常生活において、子どもにどのような変革を与えたかで評価されるものである。

そういう意味では、道徳の授業というのは、一回ぽっきりのものではなく、他の教科とも絶えず関連しているとも言える。

私が、一番不安を感じるのは、教育勅語復活を唱える人たちが、教育勅語を暗記することが道徳教育なのだと思っていること、現在の教育課程に道徳教育が組み込まれているということを知らないということである。

だから、現在の道徳教育の目標など知らない。

単純に徳目の暗記で、道徳教育ができるなどと考える単細胞的な考えに不安を感じるのである。

単純な考えしかできない人は、悪かったら破壊するというまた単純な考えに行きやすい。

事実、自衛隊のクーデターを期待するなどと言う人もいる。

問答無用的な考えがはびこることを大いに懸念する。

にほんブログ村 教育ブログへ

ブログランキング

人気blogランキングへ



キャッシング無料案内→おまかせ紹介君


posted by edlwiss at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(1) | 道徳

2008年05月07日

汗水垂らして働かなきゃ?!

インターネットを利用して、自分は何かをすることなく、24時間収入のある人もいる。

そういう仕掛けがあるという話をすると、

汗水垂らして働いて得た金でないと

という人がいる。

意外に若い人の中にも、そういう考え方をする人がいる。

果たして、そういう考え方が正しいのだろうか?

体を使って労働し、苦労して得たものが尊い、価値あるものだというなら、自動販売機でジュースを買うこともやめた方がよい。

ジュースを得るために、自分で果物を栽培し、収穫してジュースを絞るところまで自分でやることはいいことということになる。

炊飯器を使うこともやめて、昔のように薪割りをし、釜でご飯を炊く生活に戻ることもよいことになる。

一方、見方を変えると、かなり一生懸命働いても一銭にもならない労働もある。
ボランティア活動など、代表的な例だ。

自分の生活の糧は、汗水垂らして働いて得るべきだということになると、一生懸命働いても生活の糧が得られない労働は、どういう価値になるのだろう?

私は、労働の質や働き方というものは、時代の流れにより変化すると思うのである。
だから、後ろを振り返ることは大切だとは思うが、昔のようにやる方がよいのだというイメージから離れられない考えは、思考の柔軟性を欠く考え方で、未来を切り開く原動力にならないどころか、苦労して、体を痛めて得た収入だから尊いと考えるのは、時として自己満足にもなりかねないと思う。

原題のテクノロジーをうまく活用し、自分は特に何をするのでもないが、大きな利益を得ている人が、その利益を困窮にあえでいる人、社会のために役立てることも立派だし、尊いことだと思うのである。

むしろ、無駄な労力を廃し、合理化を進め余った時間や資源を人々の幸福に役立てるべきだと思う。

みんながみんな忙しくては、人を助けることはできないだろう。
にほんブログ村 教育ブログへ

ブログランキング

人気blogランキングへ
posted by edlwiss at 23:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳

2007年09月20日

道徳を教えるということ

道徳に限らず、教えるというと、先生が口頭で子どもに話をするというイメージを描きやすい。
もちろん、先生が何かを話さなければ指導は始まらないわけだが、一方的に話すだけで教えると言うことが成り立つのかということである。

逆に、聞く立場になって考えてみると、私たちは、どんなことでも相手から話されたことを受け入れられるのかということになるのだが、そんなことはない。

話を聞いた中に、疑問があったり、質問してみたくなったり、反論してみたくなることはある。
だから「先生の言うことには何でも従うべきだ」ということを頭ごなしに言ってみたところで、反論を許さないと言う無言の圧力がかかっていれば、何も言わず聞いているだろうが、心の中では受け入れていないかも知れない。

相手がコンピュータならば、どういう内容を教える、つまりプログラミングしようが命令通り動く。それが殺人命令であってもである。
しかし、我々が考える教育とはそういうものではない。

もっと高度な、自立して活動する人間である。
人間は、心や知能を持っているので、言われることに疑問を持ったり、反論してみたくなるのは自然なことである。

それを、押さえようといくら努力しても、表面的に従順さを示すだけである。
表面的な従順さは、先生の前だけは先生が喜ぶように振る舞うかも知れないが、場面が変わるとどういう行動をとるかわからない。

だから、道徳を教えるということは、子どもからの疑問や反論を経て、子どもが納得するあるいは、道徳の指導がきっかけとなり、日常の活動場面で道徳の指導時間の内容を思い出しながら試行錯誤を繰り返すようになるということが大切なのである。

子どもに限らず、人は反論しても無駄だ、反論するとろくなことはないと考えると、無口になりあたかも納得したような態度をとることがある。
そういう意味では、反論があるということは、むしろ歓迎すべきと考えるべきである。

実際に、ある中学校では全校生徒集会で、きまりについて話題が討論されている中で、ある生徒が「私は、○○の交差点で教頭先生が信号無視をするのを見ました」と発言した。これに対して、教頭は発言を咎めることはなかった。
生徒にしては、先生はきまりを守れというのに、先生の行動はおかしいという気持ちを素直に表したわけだ。
これを、生徒のくせに生意気だという態度をとらず、悪いことは悪いと認めることで、生徒も納得し、かえって私たちの先生は話せるという気持ちを起こさせるものだ。
また、生徒が率直にそういうことを言える空気があるということもいいことである。

道徳を教えると言うことは、先生から子どもに一方的ではなく、子どもが納得し、誰も見ていない環境でも子どもが望ましい行動をとるようになることが目標でなければならないと思うのである。

にほんブログ村 教育ブログへ

ブログランキング
posted by edlwiss at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳

2007年09月19日

道徳は実践してこそ意味がある

本日(2007年9月19日)の新聞に「道徳の教科化見送り」とあった。
人によっては、なぜ今日、道徳教育の強化が進まないのかという疑問を持つ人もいるだろう。
そのように思う人は、教員の中にも大勢いるだろう。

しかし、ここで間違えていけないのは、道徳教育の強化と、道徳心の向上は必ずしも一致しないということだ。
それは指導者の道徳教育に対する考え方の問題があるからだ。
実際、道徳教育が教科とされた場合、道徳をどう教えるのか考えてみるといい。

道徳という教科書があったとすると、その教科書の内容はどうなっているのだろう。
また、どういう内容を期待するかだ。

「お父さんお母さんを大切にしよう」
「お父さんお母さんを尊敬しよう」
「先生を敬おう」
「交通規則を守ろう」
・・・・・
このような内容だったら、いいのだろうか?
そして、50分かけて、お父さんお母さんを大切にしている感心な少年の話を朗読し、感想を話し合う。
結びでは、先生が子どもたちに、今日の授業でわかったことは何ですかと問いかける。
子どもは「お父さんお母さんを、大切にしなければいけないということがわかりました」と答える。
先生は満足する。
これが、研究授業だった場合、子どもが今日の目標に合った発言をしていたので、授業は大成功でしたということになるのだろうか?

まあ、それはそれとして、問題はこれで、この授業をきっかけとして、お父さんお母さんを大切にするという子どもの気持ちが高まるのであろうか?

にほんブログ村 教育ブログへ

ブログランキング
posted by edlwiss at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。