道徳に限らず、教えるというと、先生が口頭で子どもに話をするというイメージを描きやすい。
もちろん、先生が何かを話さなければ指導は始まらないわけだが、一方的に話すだけで教えると言うことが成り立つのかということである。
逆に、聞く立場になって考えてみると、私たちは、どんなことでも相手から話されたことを受け入れられるのかということになるのだが、そんなことはない。
話を聞いた中に、疑問があったり、質問してみたくなったり、反論してみたくなることはある。
だから「先生の言うことには何でも従うべきだ」ということを頭ごなしに言ってみたところで、反論を許さないと言う無言の圧力がかかっていれば、何も言わず聞いているだろうが、心の中では受け入れていないかも知れない。
相手がコンピュータならば、どういう内容を教える、つまりプログラミングしようが命令通り動く。それが殺人命令であってもである。
しかし、我々が考える教育とはそういうものではない。
もっと高度な、自立して活動する人間である。
人間は、心や知能を持っているので、言われることに疑問を持ったり、反論してみたくなるのは自然なことである。
それを、押さえようといくら努力しても、表面的に従順さを示すだけである。
表面的な従順さは、先生の前だけは先生が喜ぶように振る舞うかも知れないが、場面が変わるとどういう行動をとるかわからない。
だから、道徳を教えるということは、子どもからの疑問や反論を経て、子どもが納得するあるいは、道徳の指導がきっかけとなり、日常の活動場面で道徳の指導時間の内容を思い出しながら試行錯誤を繰り返すようになるということが大切なのである。
子どもに限らず、人は反論しても無駄だ、反論するとろくなことはないと考えると、無口になりあたかも納得したような態度をとることがある。
そういう意味では、反論があるということは、むしろ歓迎すべきと考えるべきである。
実際に、ある中学校では全校生徒集会で、きまりについて話題が討論されている中で、ある生徒が「私は、○○の交差点で教頭先生が信号無視をするのを見ました」と発言した。これに対して、教頭は発言を咎めることはなかった。
生徒にしては、先生はきまりを守れというのに、先生の行動はおかしいという気持ちを素直に表したわけだ。
これを、生徒のくせに生意気だという態度をとらず、悪いことは悪いと認めることで、生徒も納得し、かえって私たちの先生は話せるという気持ちを起こさせるものだ。
また、生徒が率直にそういうことを言える空気があるということもいいことである。
道徳を教えると言うことは、先生から子どもに一方的ではなく、子どもが納得し、誰も見ていない環境でも子どもが望ましい行動をとるようになることが目標でなければならないと思うのである。

posted by edlwiss at 22:22
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道徳