2010年10月25日

そんな先生いないよ


zetsubosensei.jpg
小学校低学年ならいざ知らず、子どもも学年が上がるにつれ、社会性も発達し自分だけの世界から、大人を含めた世界を見るようになる。

その大人の中に、学校の先生もいるわけだが、頼る大人としての先生の限界も感じるようになる。
「先生も先生個人の生活があるんだ」
とわかってくるし、自分の親とは違うということを見せつけられるようになる。
そして、先生が児童生徒を叱る基準は、先生自身の不利益に基づいたものだと思うようになる。

ある小学校で、親から、子どもが帰宅しないという連絡があった。
一度は帰宅したものの、何かのことで親に叱られて家を飛び出して帰宅しないというのだ。

通報を受けた学校は、校長が緊急に職員を集め対策を考えた。
校長はビクビクしていた。
親としては、学校に何か責任を問うというものでなかったし、当然、学校に責任があるというものではない。
だが、校長は気が小さい人で、評価を気にしていた。

もし、子どもに何かあったら、教育委員会から日頃の生活指導について報告をしなければならないということになるからだ。
校長が考えたことは、生活指導には怠りはなかったという弁解がほしい。

校長は職員に向かって、子どもを探すように指示した。
職員たちは、大変だなあと思いながらも、その気になっていた。

ところが、校長の探せという指示の範囲が、あまりにも狭いもので、そんなところに子どもがいるはずはないというところであった。
それには、職員たちは唖然として、逆にやる気をなくした。

ある正義感の強い先生が

「校長先生、そんなところ探してもムダですよ。それとも、探すふりをせよと言うのですか?」

と言った。
校長は

「そうだ」

と答えた。

校長は、とかく校長室で新聞を読んでいるだけだなどと、批判する人がいるが、学校が平和で暮れているのならそれでも良いと思う。
校長が毎日、新聞を読んで暮れていく学校なんて、とてもいい学校だと思う。
だが、いざという時、緊急事態の時、どう判断力を示すかということで価値が問われるものだと思う。

校長でなくても、一般の先生とて同じである。
大事件でなくても、日常の生活の中で、こんな時先生はどうするのか?と試されている時はある。

特に、子どもが失敗した時、先生がどんなことを言うか気にする。
その声のかけ方一つで、信頼関係は大きく変わることがある。

本当の教育というのは、非常時に作られていくとも言えるように思う。

「そんな先生いないよ」

との子どもの言葉は、先生と子どもの距離を端的に表している言葉とも言える。

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2010年10月24日

生徒に言われて、悔しかった言葉


ijimekozo.jpg
ある先生の文章に「生徒に言われて、悔しかった言葉」と言うのがあった。
その言葉というのは

「先生、ヤクザに注意できますか?」

というものであった。

この先生は、生徒指導主事をやっていた。
それで、生徒にあれこれ注意することが多いのだろうと思う。

生徒としては、注意されたことはもっともなことなので、反論の余地はない。
しかし、生徒としては注意された先生に対して、何か抵抗したいという気持ちがあって考えたことだろうと思う。

その先生が、どう答えたのかはわからなかったが、私がその先生の立場だったらどう答えただろう?

それは「ヤクザには注意できない」と答える。

こう答えたら、生徒としては「相手によっては(恐い者に対しては)、注意できないだろう。先生は俺たちを弱いとみるから注意するんだろう?」と言いたいのだろうと思う。
先生は不公平だとも言いたいのかも知れない。

相手がヤクザでなくても、荒れた中学校では、いわゆる突っ張った生徒には注意しない先生がいるというより、注意する先生はいないだろうと思われる。

ある用事で、荒れていることで有名な中学校へ行ったことがある。
ちょうど清掃の時間だった。

ほとんどの生徒は清掃をしていなかった。
それでも、背の小さい、真面目そうな顔をした女子が黙って黙々とほうきで掃いているのは見えた。

廊下を歩いて、職員室の前に行った時、後ろから髪の毛は逆立ち、学生服は例の突っ張り風の生徒が3人歩いてきた。
ちょうど、職員室から男の先生が出てきた。
その先生は、彼らに

「おう、お前たち」

と言って、ご機嫌をとっていた。

学校がこうなる前だったら「なんだ、お前らッ・・・」という風だったかも知れない。
だが、こういう状況では、心ではクソッと思っても主導権は生徒が持っているようなものだから、どうしようもない。

いじめでも、荒れた学校でも、どうしたらその状況を正常化できるのだろうか?
そんなことを真面目に考えるより、毎年、転勤願いを出して一刻も早く正常な学校へと考えた方がよいか?

突っ張った生徒に注意できないのも、ヤクザに注意できないのも同じだ。
だが、注意しないのと許容するのとは違う。

まず、出発点は、そういう状況を許さないという強い心を持つことだ。

ああだこうだ手を打つのはそれからである。

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posted by edlwiss at 11:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年10月20日

いじめは他人ごとですか?

kyositsunoakuma.jpg「いじめをしないように!」って言っていますか?
それで、いじめはなくなりますか?
なくならないにしても、少しは効果があると思いますか?

いじめをするなと言っただけで、いじめがなくなれば簡単でいいですね。
いや、そんなことはどうでもいい、一応、指導をしたという実績が大切なんだ、ですか?

それでは、よく言われる「お役所仕事」みたいですね。
子どもの前で、お役所仕事(みたいなこと)をすると「いじめをするな」と言っても、いじめはやめようとという気持ちにはならず「先生は、いじめをなくすことに熱心ではないんだ」という気持ちが伝わると思うのです。

だから、本当にいじめをなくしたいなら「本当にいじめをなくしたいという気持ち」が持てなければ、子どもにはその熱意は伝わらないと思うのです。

そうです。まず熱意だと思うのです。
「熱」という字があるように、熱がなければ、熱はどこにも伝わらないと思うのです。

学校で起こるいじめを解決するためには、先生だけでどうこうしようとしても、どうにもならないと思います。
学校は先生と生徒の共同体です。

だから、学校を変えようとするなら、生徒の強力がなければ絶対だめです。

先生が偉そうにしているうちはダメだと思うのです。
先生が生徒の高さまで歩み寄って「本当に困った。君たちの力が借りたい」という姿勢にならなければ、いじめ解決に向かって動き出すことはないでしょう。

学校がいじめで困っている時、悩んでいる人は誰ですか?

いじめられる子、もちろんそうですね。当たり前です。
他には誰が悩んでいるでしょう?

「どうせ、ここ数年のうち転勤だから、下手なことにクビ突っ込まない方がいい」

と白けている先生はいませんか?

校長先生はどうですか?

「もうじき退職だから、それまではなんとか表沙汰は防ぎたい」

という守りの姿勢ですか?

どういうわけか、そういう空気は生徒に伝わるものです。

「所詮、先生は他人なんだ。オレたちのことに真剣になってくれる人なんかいない」
「先生なんかあてにならない。相談なんかしたら、余計に秘密が漏れるだけだ」

こういうところが壁で、いじめはわからないところで進行し、なくならない。

生徒に関心を持っていないから、何かおかしいという空気もつかめない。
給食中に誰かいない、なんてことも気がつかない先生がいたぐらいですから。

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posted by edlwiss at 17:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年10月19日

また精神論ですか?

沈黙は金という言葉がある。
いっそ黙っていた方が、指導効果があるんじゃない?と思われることがある。

いや、プラスもマイナスもなければよいのだが、しゃべることによって、かえってマイナスになっていることだってある。

それは、毎日毎日、愚痴のような演説を子どもの前で言って、士気を低下させている教師もいるからだ。
それで、本人も指導した気になっているんだからどうしようもない。

「今日もか、うんざり」

なんて子どもは口に出さないが、内心そう思っているということはないか?
特に早朝から、愚痴を聞かされた日には「今日はいいことなさそうだな」という気分になってしまう。

何か、言わなきゃならないような悪いことが子どもにありますか?

そりゃあるでしょうね。
人間だから、探せば悪いところは出てくる。

では、良いところはないんですか?
これも探せばあるでしょう?
なぜ、良いところを探さないんですか?

悪いところを探して指摘していくという指導法もあるけど、よかったところも認めてあげないと「あれでよいのだ」という自信がつかないと思う。

私は、良い指導者は「それでいいんだ。よくできた」ということをはっきり言うと思う。

良いところをはっきり言えない指導者は、指導に自信がないのだと思う。
それは、スポーツの優れたコーチの指導を見ているとわかります。
コーチが望ましい姿を知っているから、その姿が見えたとき「それでいい。今のはよかった」とはっきり言えるのです。

指導というのは、具体性が大切だと思う。
指導者が自信を持って、具体的なことを言える。
具体的に好ましい姿が見えたら、すかさず認める、ほめる。
これができる指導者が、優れた指導者だと思う。

精神論は大切だが、それは愚痴を言うことではない。
精神論とは、指導者そのものの姿ではないかと思う。

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posted by edlwiss at 09:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年07月30日

お説教することが生活指導ではない

生活指導と言うと、どうも子どもを前にお説教することのように思っている人が多いのには驚く。

そもそも、生活指導の目的は何なのだと問いたい。

お説教することが、生活指導の目的ではないはずである。
しかし、なぜ、生活指導と言うとお説教になるのだろうか?

それは、お役目として仕事をするということだけにしか頭にないからではないだろうか?

校務分掌が細分化され、責任範囲が明確になることは、いいことなんだろうが、それは時として「一応、役目だけ果たした」ということだけになりやすい。

それが、話だけはした、お説教をしたで終わることにもなる。
だが、それは形式的にお役目は果たしたのだが、効果はどうだったのかというと、逆に反感を買ってしまったということもある。

生活指導を実のあるものにするためには、お役目だけではなく、その効果も考えなくてはならない。
効果を考えることは、同じ話をしたにしても共感を持たれるものでなくてはならない。
反感をもたれる話ならしない方がよい。

それでは、共感を持たれるにはどうしたらよいか、ここからが、本当のプロ教師かどうかが問われるところだと思う。
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posted by edlwiss at 16:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2010年01月26日

ほめることが効果的なのは?

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homeru.jpg今日のNHK「クローズアップ現代」は褒めるということをテーマにしていた。

褒めることは難しいですね。

が何回か出てきたように思う。

今、世は不況で、職場でも叱られることが多いということだった。

経営者は大変だろうから、褒める気持ちの余裕も持ちにくいのだろう。

心がイライラしていて、従業員にあたれば、ますます雰囲気は悪くなるだろう。

不況の時は公務員はいいと言われるが、最近は公務員も給料が下げられて、余裕はないようだ。

ところで、指導の基本としては「叱るより褒めろ」と言うが、確かにそう思う。

ところが「やたらに褒めてもだめだ」という人がいる。
こういう、ある人と話をした時、この人は「褒めるということが本当にわかっていないのだな」と思った。

褒めることに効果があるというのは、褒める人のレベルが問題なのだと思う。

褒められる側が、どういう人に褒められたら嬉しいかということを考えてみなければならない。

わかりやすく言えば、あのマリナーズイチロー氏が野球部にやってきて、練習を褒めてくれたとなれば、褒められた効果は大きいだろう。

つまり、褒めることが力を発揮するのには、指導者のレベルが高くなければならないということなのだ。

子どもが帰宅して「今日、先生に褒められた」と嬉しそうに、親に話すということは、子どもがそれだけ先生を尊敬しているという証拠ではないかと思うのである。


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posted by edlwiss at 20:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2009年11月09日

犯人捜し

学校で物がなくなったなどの事件が起きた時、誰がやったのかということが問題になると思うが、犯人がわかれば問題解決なのかということを問いかけてみたい。

何かがなくなれば、探すのだろうが、持ち主自身の過失でなくて、盗難に遭ったとなれば、盗んだ者への怒りを持つのは人情だろう。

しかし、学校とは特別の場所だということを忘れてはいけない。
学校も特別だが、

成人が何かを盗めば、窃盗罪に問われる。
だが、未成年については事情が違う。
それは、少年法という法律があるからだ。

触法少年に対する行政機関による保護処分について定めた1922年に制定された旧少年法(大正11年法律42号)を戦後期に全面改正して成立した。

少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、原則として家庭裁判所により保護更生のための処置を下すことを規定する。ただし、家庭裁判所の判断により検察に逆送し刑事裁判に付さしめることもできるが、その場合においても不定期刑や量刑の緩和など様々な配慮を規定している(51条、52条、58条、59条、60条等。少年保護手続の項目も参照)。なお、少年に対してこのような規定をおくのは、未成年者の人格の可塑性に着目しているためとされている。

2007年改正で、少年院送致の対象年齢は「おおむね12歳以上」となる。法務省は「おおむね」の幅を「1歳程度」とするため、11歳の者も少年院収容の可能性がある。

本法でいう「少年」とは20歳に満たない者を、「成人」とは満20歳以上の者をいい (2条1項) 、性別は無関係である。
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
未成年は社会的に未熟で、未熟なうちに刑事罰を科してはかわいそうだというのが趣旨と言えるだろう。

remizerable.jpg学校においては法律があるから、というより、学校はあくまで教育の場であるということを忘れてはならないだろう。

未成年が少年法で守られていても、場合によっては成人と同じ刑事罰が科されることもある。
だからと言って、そういう方向に追いやるのは、学校の敗北と私は考える。

罪を憎んで人を憎まず

という言葉があるが、犯人を憎む前に、どうしてそういう事態に至ったかを考えてみるべきだろう。

そういえば、先生たちの昼食が盗まれたことがある。

土曜日に会議を行い、出前の置いてある隣室に行ってみると、カツ丼がなくなっていた。
犯人は、間もなくわかった。

教室のゴミ箱から、器が出てきた。
そこから探っていって、1人の生徒が盗み出して食ったということがわかった。

親を呼ぶと、母親がきれいに着飾って「ウチは仕事が忙しいので、子どもの弁当まで・・・」と言い出した。

盗みはいけないことだが、そんなに飢えに耐えかねるまで放っておく親に腹が立った。

この話を思い出すと、ユーゴーの「レミゼラブル」も思い出す。
小説ではあるが「人間とは・・・そうなのだ」とつくづく感じさせられる。

kozetto.jpg

ミリエル司教は実に偉大な人だ。
教師は、この司教のような心を持つべきだと思った。

世の中には、本当に本人の責任なのかと思われる事件もある。


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posted by edlwiss at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2009年10月29日

そんないい方法があるのなら・・・

実際、私はクラスでお金がなくなったということを経験したことがある。

その時は非常に困った。

途方にくれたと言ってよい。

だが、最終的にはよい結末でホッとした記憶が、今でも強く残っている。

それでは、どんな方法をとったのか?

クラスでお金がなくなった時は○○するなどというマニュアルはない。

しかし、ふと気がついたときは、大人ともあろう者、先生ともあろう者が

「そんなにいい方法があるなら、教えてくれ」
とか「ここに書いてくれ(書け)」

などと言う人が増えてきて、呆れるやら驚くやらである。

率直に言って、頭は大丈夫かと思う。

さらに嫌気がさすのは、そこにやっかみとか嫉妬が存在する。

学芸会で出演者が全員主人公という教育の効果か「オレは」という自尊心の強い人が増えてきたように思う。

昨年亡くなったのだが、私より20以上年上のおばちゃん先生が、昔
「私にも、その教え方を勉強させてください」
と新米の私に言われたのはすごいと思う。

逆に、私が、いいことは誰からも謙虚に学ぼうという姿勢を教えてもらったと思う。

知らないことは、誰にでも

「すみません。知らないので教えてください」

と言おうと思うようになった。

さて、なくなったお金の問題はどう解決したかということだ。
いや、人によっては、それは解決ではないという人がいるかも知れないが、私は今でも最良の解決ではないかと思っている。

困った時は偉そうにせず、子どもにも正直に困った態度を示そう

というのは、どうしようもなく困った時は、いつも子どもが助けてくれたというか解決してくれたと思っているからだ。

これは、問題の解決を子どもに丸投げすることではない。
ともに、一緒になって解決に取り組むということだ。
それぞれが、観客にならず一体となって取り組むということである。

時間をかけて話し合う

学級会を開いて、様々な意見を出し合った。

自分によい案があるわけではなかった。

授業では、最終的には先生が答えを示すことができるが、こういう問題では、そんな答えはどこにもない。

不安に駆られながら、子どもと何時間も話し合った。

わかってきたことは、盗まれたらしいということだった。

誰も傷がつかない方法

なぜ、困るかというと、犯人がわかればよいということでもなく、なくなった金を弁償すればよいということでもない。

話し合いをしているうちに、ふと、私にあることが思いついた。

子どもに言った。

「もし、そのお金を持っている人がいたら、そのお金は先生のところへないしょで持ってきてほしい」
「そうしてくれたら、先生はその人の名前を誰にも言わないと約束する」
「みんなも絶対に犯人捜しをしないと約束してほしい」

と、この3つのことを言った。

これが、うまくいくかどうかは、もちろん自信などなかった。

私は子どもたちに、本当に真剣に心をこめて語った。

それだけだ。

その後、期待もせず、ほとんど忘れかけていた頃、私は入院している母の病院に行った。

母が

「今日ねえ、2人子どもが来てねえ」

と言い出した。

話を聞くと、お金を盗った子どもがお姉さんに連れられて、お金を返しに来たと言うのだ。

もちろん、私にはそれが誰かはわかった。

翌日、私は子どもたちの前で

「約束を守ってくれて、お金は返ってきた。だからみんなも約束を守って欲しい」

という意味のことを言った。

みんな納得したように思えたし、それから、犯人を追及する空気もなかった。

着地点はこういうことだが、人によっては、これをいろいろな思いでみるひとがいるだろう。

でも、私はよかったと思っているし、あのときの子どもたちに感謝している。

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2009年10月28日

クラスでお金がなくなった、どうしますか?その2

honkinokyoiku.jpgクラスでお金がなくなるというのは厄介な問題である。

では、この問題をどう解決すべきか?
あるいは、どうしたら解決できるのか?

1.問題の捉え方

2.問題解決のあり方(着地点)

の二つを指導する側が正しく共通理解しておく必要がある。

お金がなくなったというのも、問題だが、こういう問題の場合、人によって捉え方が違うことがある。

不要なお金を持ってくるやつが悪い

「不要なお金をもってこない」という決まりがあるのだから、持ってくる者が悪い。
これだけでよいのだろうか?

こう考える中にも「決まりを守らない者が悪い」で押し通そうとする人と「いや、それだけで教師の責任は逃れられるのか?」という方向に考えがいく人がいるかも知れない。

いずれにしても、これは指導者である教師が自分の責任追及に考えが及ぶという心配をするということであって、そういう姿そのものが子どもに影響を与えるものである。

少々の金なら弁償して終わりにしたい

たとえば、1000円ぐらいなら、担任の自分が出してやって解決としたいという考え。


盗んだやつが悪い、徹底的に調査して、犯人を捜す

こういう考えになると、犯人捜しの手段を考えることになる。

すると、犯人捜しの手段は?

(1)1人1人個室に呼んで面接をやる。

(2)犯人らしいと思う者の名前を書かせる。

などの手段をとりますか?

そして、

(1)犯人が見つかった場合

(2)見つからなかった場合

(3)犯人だということになった者が否定している場合

(4)犯人ではないが、誰かの圧力で「私がやりました」
  と言っているかも知れない

犯人が見つかった場合、それで解決

犯人が見つかったのだから、事件は解決だととの考え。

さあ、どうしましょう?

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2009年10月25日

クラスでお金がなくなった、どうしますか?

学校に余分なお金を持ってこない、という指導をしている学校は多いと思います。

子どもも、そういうことは十分承知していても、ついうっかり持ってきてしまったり、集金の日に机やロッカーに置き忘れたりして、お金がなくなったということがあるかも知れません。

こんな時、どういう指導をしたらよいのでしょうか?

適切な指導をしなかったために、問題が大きくなるといったことも考えられます。

ある先生は、生徒の指紋を取って問題になりました。

また別の先生は、子どもたちに紙を配って「犯人と思う人の名前を書きなさい」とやった人もいます。

お金の問題は、厄介です。

お金が出てこない場合は、それはそれでクラスにしこりが残るでしょう?

どんな指導をしたらよいでしょう?

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2009年10月25日

1日ぐらい待つ心のゆとりを

どうも、体罰の好きな人はなくならないようである。

どうして体罰が必要なのかと質問すると
「言っても聞かないとき」
という返事が多い。

私は、かつて下校指導をしていた時、妙な自転車で帰る生徒を見て止めた。
改造自転車のようであった。

私:「おい、この自転車は危ないぞ」

生徒:「これ、違反じゃないですよ」

私:「違反か違反ではないか、ではなく、危ないといっているのだ」

生徒:「・・・・」

(どうも、注意されたことが不満そうである)

私:「よし、それでは、明日、私のところへ来なさい」

(生徒は帰って行った)

そして、翌日、その生徒は私のところへやってきた。

私が何か言う前に

生徒:「僕が悪かったと思います」

私:「そうか、わかればいいんだよ」

私は、くどくどと何も言わず帰した。

生徒の顔つきは、昨日と変わってさわやかだった。

私は、これでいいと思った。

このように、1日ぐらい考えさせるゆとりを与えると、すっきりとした顔をして「悪かったと思います」と言う。

私は、実に感心だと思った。
いや、私だったら、そんなに素直になれるものだろうかと自問した。

そして、子どもの素直さに自分の方が教えられた気になった。

言っても聞かないから、体罰をと言う前に、1日ぐらいゆとりを持とうと言うのが私の提案である。

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2009年04月23日

ウソを言わないこと

日頃から信頼関係を築いておくことの大切さ

生徒指導はひとことで言えば、生徒との信頼関係を築くことだと思う。

やさしく人気のあった先生も、生徒指導主事になるとまるで人柄が変わってしまう人がいる。

生徒指導主事というと、大変な役だが、生徒の生活指導というより、俺も出世コースに乗ったかも知れない
と思う人がいて、生徒の気持ちを汲むことより、管理職の評価を気にするようになる人がいる。

このチャンスを逃がさないためにも、絶対に生徒の不祥事は出していけないと思うのである。

実はこのスケール小ささが生徒を不幸にし、学校生活を窮屈にしていく。

いくら監視を強めたところで、四六時中生徒を監視することはできない。
監視が強くなった。決まりがうるさいと生徒が感じると、生徒は目に見えないところで、あえて決まりを破りたくなるものだ。
そして、出世意識みえみえの先生の態度に嫌気がさす。

生徒にウソを言わない

ウソを言わないということは、言葉だけのことではない。
ウソの生活をしないということだ。

いくら演技をしても、その人の人格というものはどこかに出てしまうものである。
自分を磨くことに精を出して、尊敬される人になることだ。

大人は子どもと違って、苦しい立場に立たされることがある。
そういうところを子どもはよく見ている。

「りっぱなこと言うけど、やっぱりそうだよな」

と感じられたら終わりだ。

「りっぱなこと言うけど、やっぱりそうだよな」

は、国民が今の政治家を見ている目と同じだ。

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2008年09月28日

人を信用できない

給食制度を止めて、各学校に食堂を作ったらどうかという意見を私が出したら

「そんなことをしたら、子どもはジュースばかり買う」

と言った人がいる。

ここで、学校食堂の是非論についてはここでは触れないことにするが、この人の発言のように、何か自由な空気があると、人は良くない方向の行動すると考える人、つまり人の善意の行動が期待できない人は教師としては失格だと思う。

教育は人を信用することから始まると思うのである。

「そんなことをすると○○をする」

と、常に○○に否定的な行動を口にする人は、頭から人を信用していないのだから、その人にはいつも人を信用しないという空気がついてまわる。

「騙されてもいいじゃないか」

と言った人がいる。

そう、子どもに騙されてもいいじゃないですか?

自分が人と接するとき、自ら相手を信用しない態度をとっていれば、相手も自分を信用しないだろうと思う。

ある公的な施設で、飲食は一切禁止という決まりが明示された。
ここは、ほとんど大人が集まる施設である。

強い禁止令に、多くの人が信じられないという気持ちでいた。

ある人が

「講師を呼んだとき、お茶を出すのも禁止ですか?」

と質問した。

返事は

「一切、例外なしです」

だった。

この、まるきり融通のきかないきまりをめぐって、賛否両論が戦わされた。
そして、理由を問いつめた人がいた。
理由は「汚すからです」ということだった。

ある人は

「私は、禁止に賛成です」

と言った。

一同がその人の次の言葉に注目した。

「少しでも、許すときりがなくなり、ますます汚すからです」

とその人は発言した。

この人は、自由があるとそれをいいことに、人は悪い方向に行動するとの考えを持っているのだ。
すなわち人を信用できないと宣言しているようなものだ。

ここで、公的な施設は何のためにあるのか考えてほしいと思うのである。

みんなの税金で作ったものであるから、お互いに大切にしなければならないのは当たり前である。

だが、公的な施設の目的は、汚さないできれいな状態で保つことが一番の目的なのか?

いや、そうではなく、人々が施設を利用することによって、人々が精神的にも身体的にも成長する場であるということが最優先であるはずだ。

「みんなの施設です大切に汚さないように使いましょう」

という運動をし、責任者やリーダーは責任を持って、教育や指導にあたり、その活動の中で反省をしながらみんなが成長するという活動をすることが大切なのではないか?

活動の中身によって、どの程度の飲食が許されるのか、きまりがなくても時と場を心得て、参加者が判断できるような高まりを目指すべきである。

時には不心得者がいて汚すことがあるかも知れない。

そういうときは、リーダーか誰かが注意したり指導しなければならない。
そうして、その不心得者は社会的な基準というものを知ったり、習得するきっかけになる。

そういう、一見、めんどう、やっかいという活動を排除していては、何のための社会的活動か意味不明になるのではないか?

ただことが行われているだけなら、それはロボットが集合して動いているだけの場ではないかと思う。

ユーゴーの「レ・ミゼラブル(ああ無情)」に登場する主人公のジャンバルジャンは、飢えに耐えかねたとき食事を出していただいたミリエル司教の恩を感じず、あろうことか、その銀の食器を盗んで逃走する。
彼はあとをつけていたジャベール刑事に捕まり、観念するが、ミリエル司教の

「いや、その食器はその人が盗んだのではありません。わたしがその人に差し上げたものです」

との言葉にジャンバルジャンは人が変わったように、その日から人間的な心を回復する。

これはフィクションであるが、フィクションを超えて私たちの心に共感をいだかせる。

教師たるもの、このミリエル司教の心を持ってもらいたいと思うのである。

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2008年09月27日

子どもの質が違うんですか?

最近は先生の不登校が増えていると聞く。
それほど生活指導が大変らしい。
モンスターペアレントの存在も、教師のストレスになっているらしい。

とにかく、現場の先生は疲れていて、嘆きが多い。
それで、指導法、特に生活指導についてあれこれ意見を言うと

「いや、今の子どもは昔と違いますよ」

という言葉をよく聞く。

つまり、あなたの言っている指導法は今の子どもには通用しませんと言っているのだ。
時代が違うと言わんばかりだ。

本当にそうだろうか?

最近はゴルフの打ちっ放しも空いている。
昔は、順番待ちをしなければならないほど賑わっていたこともあった。

打席はいつも詰まっているという感じだった。
そして、いつもうるさいと感じていた。
話し声が、すずめの集まりのように絶え間なく聞こえてくる。

何を話しているのかと、注意して聞いてみると、球の打ち方について指南している話が多かった。
指南している人は若い人が多い。大学生かと思われるような人が多かった。
かなりよく通る声である。
その声がひっきりなしにあちこちから聞こえてくるから、気にし出すと落ち着かなくなってくることもある。

年配の人は概して、穏やかで、話し声も耳障りに感じることは少なかった。

ゴルフがブームの頃は、ゴルフ教師が多かったのだ。

ゴルフの指南書はたくさん出版されていて、それらを読んで、頭に入れておくとゴルフの教師になれるような気がしてくる。
自分のスイングはさておき、他人のそれを見ると解説書との違いがよくわかって

「フォロースルーがよくない」

だの

「壁を作らなきゃいかん」

だの

「もっとゆっくりスイングするべき」

だの

あれこれ言えるというか、言いたくなる気持ちにもなる。

二階席の端の方を見ると、何か特別に区切られたところで、数人の人が指導を受けているのを見た。

教えているのはゴルフの先生(コーチ)のようだ。
教わっているのは、初心者か初心者に近いような人たちと見受けた。

先生は静かな声で、フォームをなおしたりしていた。

これはプロの教師(コーチ)だった。

ゴルフの解説書はたくさんあるし、そこに何でも書いてある。
その上、プロのコーチに金まで出して教わる必要があるのか?
少なくとも、おれはゴルフの基本などわかっている。
問題は実践が足らないだけだ。


プロのコーチと言っても、青木や尾崎ならいざ知らず無名のプロなんぞに教わったって・・・なんて考えているかどうかは、他人の心は読めないのでわからない。

私も、本をたくさん読めば大丈夫だろうと思っていたことがあった。

でも、それは違うのだと思うようになった時があった。

それはプロのコーチとアマチュアのコーチの違いだ。

誰から聞いたかは覚えがないが、アマチュアのコーチはワンパターンの指導法しか知らないが、プロのコーチの指導は、その人その人に合った指導をすると言うものであった。

一つのものさししか持っていないアマチュアの教師といくつかのものさしを持っている教師の違い。
それこそがプロとアマチュアの違い
ではないか?

プロ教師を自負するのなら、いくつかのものさしを持っているか?

いつも、自分の一つのものさしだけで子どもを測り、それに合わない子どもはダメだとしていないか?

中学生なのに九九ができない。
だったら、九九の勉強まで戻って教えなければ、その子どもを伸ばすことはできない。
こんなことは、教師でなくても当たり前に考えられることだ。

生活指導も同じではないか?

その怪獣のようだという子どもは、生まれた時から怪獣だったのか?

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posted by edlwiss at 22:17 | Comment(2) | TrackBack(0) | 生徒指導

2008年08月25日

今一番大切なものは

映画「聖職の碑」のポスターに

「少年の心は白いキャンパスだ。私はその白いキャンパスに愛という字を書いてやりたい」

とあったのを覚えている。

最近、世の中は混沌としていて、目標を失っているようにも感じられる。
一体、この国はどうなっているのか?

政治家は「国民のために」と言うが、その言葉が虚しく感じられるのはなぜだろうか?

きっと、中身がないからだろう。

国民のためにと言いながら、実は「自分のために」を一番に考えているのではないかとすら思ってしまう。

「誰でもよかった」
との理由(?)での殺傷事件が目立つ。

犯罪者を憎んだり、責めたりするのは簡単だし、警察は法律に則って犯人を処置し、裁判所は所定の手続きに従って粛々と裁判をやり、判決を出せばよいのだろうが、これだけでは何か足りない感じがする

そう感じるのは私だろうか?

何か足りない、変だと感じるのは何だろうと考えてみた。
すると、まず

みんな、自分の責任を問われないために、決められたことをやっているだけだ、との考えが浮かんだ。

そう、みんな

「俺は、やるべきことはやったよ。文句あるか?」

と言ってるかのようだ。

そうだと共鳴してくれる人はいい。
だが、今日

「何でそれが悪いの?」

という言葉が返ってくるような気がするし、言葉に出さずとも、多くの人がそんな顔をしているようにも見える。

だから、犠牲になったに、誰とは知らず花束などが備えてあるのを見るとホッとする。

自分だけはの心が支配し、次第にみんながバラバラになり、みんなが孤独になっていくのではないか?

大分県の教育汚職が、与えた一番の衝撃は、教育に携わる者でさえ、自分の幸福の追求しかしていないということだ

だから、最近の子どもは、中学生になるころから
「他人のことを親身になって考えてくれる人なんかいない」
と考えているように見える。

教師の語る言葉が、誰のためのものなのか、教職に携わる人は今一度考えてもらいたいものだと思う。

聖職の碑(せいしょくのいしぶみ)は、中央アルプスの木曽駒ヶ岳における山岳遭難事故を題材とした新田次郎の山岳小説および、それを原作とした鶴田浩二主演の映画。

1913年(大正2年)に長野県中箕輪高等小学校(現・同県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の学校行事として実施された木曽駒ヶ岳集団登山における気象遭難事故を題材に、極限状態での師弟愛を描いた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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posted by edlwiss at 10:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2008年08月18日

支配と独立

学級経営にあたっては、教師の存在が、子どもから見てどういう感じなのかということは、結構、大切なことである。

教師は子どもからすれば、権力者には違いないのだが、支配者、国王であるのは問題だ。

だからと言って、友だち関係でもよくない。
ドラマかぶれの学校ごっこでも、かなりそれに子どもたちは乗ってくる。
でも、それは本当の自分を演じているのではない
クラスが解散すれば、ちょうどテレビのドラマが終わったように、本物でない自分も終わる。

かなり流行ったドラマでも、年月が過ぎれば忘れ去られると同じように子どもの身につくものではない。

8月は戦争を回帰させるテレビ番組が多い。
日本とアメリカの戦いがよく出てくる。

物資の補給もなく、飢えに苦しんでいる日本軍が、機関銃を持って待ちかまえているアメリカ軍の前に突っ込んでいく。
当然、正気の沙汰とは思えないが、大本営の命令には絶対服従ということで、多くの日本兵が犬死にをした。

だが、絶対服従の大本営の命令に反抗した隊長(リーダー)もいた。
そういう記録を知って、私はホッとした。
隊長は自分の命は捨てても、部下を助けたいと思ったのだ。

軍隊のように絶対服従の組織でも、そういう人間的な判断をした人がいた。

学級経営では、クラスが混乱状態にあるときは、教師は強権を発動して収めなければならないときがある。
だが、それは何でもクラスの生徒を思うようにロボット化することではない。

子どもが成長して、教師が間違った判断をした場合は反抗するようになることが大切である。
そういう人間的な判断思考ができることが、学級経営の目標でなければならないと思うのである。

利己的な主張でなく、クラス全体のことを思って、間違った教師に意見するクラスはすばらしい。

教師は子どもを支配するのではなく、子どもを独立させなければならない。

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posted by edlwiss at 23:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2008年07月30日

おじいさんのランプ

おじいさんのランプは新美南吉の代表作である。

すぐれた文学作品は、人間の心理をよく映し出しているが、この作品もそういうところに心打たれる。

ひとりぽっちの巳之助は、村人の手伝いをしながら、情けで暮らしている。
巳之助は何とかして、人並みの生活をしたい、一人前になりたいと思っている。
そういう巳之助の暮らしに転機がくる。
それは、ある手伝いを頼まれて、町へ行ったときランプを見つけたことから始まる。
村はまだあんどんを使っている時代だったが、ランプを売って儲ければ商売ができると思ったのである。

巳之助のもくろみは成功し、家を持ち嫁さんももらう。
「これで、俺も人並みになった」
と感じたある日、行きつけの店に行くと、巳之助の売ったランプは片づけられていた。

村には電気が引かれ、ランプの時代は終わったのだ。
巳之助が電気の悪口を言ってふれ回るが、時代の波には勝てず、ランプの商売は立ちゆかなくなる。

巳之助は腹が立ってくる。
誰が悪いというわけではないのだが、誰かを恨みたくなる。

そこで巳之助は区長さんを恨むことに決める。
「そうだ。おれの商売がうまくいかないのは、あの区長のせいだ」

そして、巳之助は区長さんの家に火をつけてやろうと考える。

この時の巳之助は、もはやかつての巳之助ではない。
だから、目つきも悪くなって、道も堂々と歩かず、脇をコソコソと歩くようになる。

やがて、区長さんの家に火をつけようと決行するその時が来る・・・

人は自分が不幸だと誰かを恨みたくなる。
誰かを恨むことにより、自分の心のバランスをとったり、現状を打開しようとする。

私は、最近起こる犯罪と、この「おじいさんのランプ」が錯綜する。

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posted by edlwiss at 22:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

2008年02月12日

いつもフレッシュでありたい

もうベテランの域に入った教師が語っていた。

「若い頃は、いろんなことがわからず、無我夢中でやって、今考えるとろくな指導をしていなかった。今は、ある程度指導のコツというものもわかってきて、安心感もあるので余裕を持って指導できる。
だが、不器用だった若い頃の方が子どもは伸びているような気がするんだな」

これは、大切なことを言っていると思った。

街の食堂を見ると、入り口付近に生活臭のする食堂がある。子どもの三輪車、おもちゃ、生活用品などが置いてある。
あまり手入れされていないような、植木鉢等々。
戸を開けて入ると、なんかすすけた感じがする。

こういう食堂は流行っていない。
店の主人もやや生活に疲れた感じがする。

流行っていないと言っても、近所や顔なじみの固定客はいるようだが、商売はじり貧。

こういうイメージが教師にも当てはまる。
新鮮さを失っては、子どもにはインパクトがない。
有名な芸術家は、年齢とともにかえって輝きが増している。
そして、よい仕事をする。

ルノアールの絵を見たとき、彼の絵は、晩年病に苦しみながらも、作品は力強く明るくなっている。
これは、芸術家が歳とともに成長していった証だ。
指揮者も、体力は衰えても、精神力は若々しい。
それは演奏を聴いてもわかる。
オーケストラの音が生き生きとして、しかも落ち着きがある。

教師もそうありたいものだ。
歳の多い教師の下では、私の見た限りでは、子どもたちは落ち着いている。
やはり、精神的な安心感があるのだろう。

そこに、今まで培ってきた経験と知識を加えて指導にあたれば、言うことはないはずだが。

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posted by edlwiss at 23:41 | Comment(0) | TrackBack(1) | 生徒指導

2008年02月11日

おばちゃん先生がんばれ

もうずいぶん昔のことで忘れてしまったが、本の書評で、40過ぎの女性でないと興味を示さない作家だったか、主人公のことが書いてあった。

何歳からおばちゃんなのかはわからないが、女性は「女十六、番茶も出花」なんてだれが言ったのか、これもわからない。
若いときはだれでも、若さだけでの魅力で保てるが、年を取るにつれそうはいきませんよという戒めともとれる。

逆に、これは外見が若いと言われなくなってくると同時に、本当のその人の魅力が出てくると言ってよいだろう。

前置きが長くなったが、小中学生の子どもを持つ家庭では、おばちゃん先生の人気が高いことがある。
最近はモンスターペアレントなどと言って、困った親たちの話題も多いが、学校へ苦情を申し立てる親は一人でも大変目立つものである。

しかし、学校の先生への信頼をおいている親たちもたくさんいるものであり、そういう先生へ信頼を置いている保護者たちは静かである

文句はすぐに言っていくが、感謝していることをわざわざ学校へ行っていくことはまずない。

やるべきことをきちんとやる。面倒見のいい先生は、良心的な保護者たちには人気があり、毎日の生活で、子どもを通じて先生の力というものを感じ取っている。
特に、経験を経ていい年になってきた先生で熱心な人は、保護者としては安心感があるようだ。

特に小学生であれば、親は若い。だから、おばちゃん先生は先輩でもあるわけだ。
女性特有な細やかさも、親にとっては安心感がある。

つまらない校長がいて、問題にしなくてもよい風評を気にして、そういう面倒見のいい先生を転勤させようものなら、日頃、静かな良心的な親たちは黙っていない。

良い指導をすることは地味なことである。
しかし、おばちゃん先生の熱意は親に通じているし、フアンは増えている。

つまらない声を気にしないで、もういつ辞めるかなんて考えないで、おばちゃん先生には頑張ってほしいと思う。

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posted by edlwiss at 23:22 | Comment(0) | TrackBack(2) | 生徒指導

2008年02月08日

わがままを拒否する毅然たる態度を

最近の子どもは、わがままとわかっていても、強く頑張れば押し通せると思っている者が多いようだ。

こうしたとき、ことなかれ主義で妥協してしまうことは禁物である。

このように言うと、それは親の立場で言っていると思う人がいるかも知れないが、教師の中にもいる。

教師が子どものわがままに妥協するとは、教師としての価値がないと同じと思う。

子どもがわがままを言っているときは、子ども自身もわがままを承知して言っている。
子どもがわがままで迫ってくるときは、実は、教師としての勝負どころでもあると思う。

人によっては、子どもは純粋であり、天使であるかのようにいう人もいるが、そんなことはない。

古いが「聖職の碑」という映画の広告に

「少年の心は白いキャンパスだ、私はその白いキャンパスに愛という字を書いてやりたい」

とあった。

だれが考えたのか、いい言葉だと思った。

私もその通りだと思う。

わがままを許さないという、子どもへの強いメッセージも「子どもに対する愛」なのだ。

子どもが、学校でわがままを遠そうとする時は、教師がわがままを聞いてくれないと感じると、教務主任や教頭などに申し立てることがある。
この時、聞いてくれない教師の欠点を言ったり、ひどい場合は創作したりする場合もある。

また、ものわかりのよい教師の方へ寄りつくようになったりして、頑張っている教師は孤独感を感じることがある。

しかし、ここががんばりどころなのである。
子どもは不思議なもので、わがままを頑として受け入れてくれない教師を嫌っているように見えても、実は心は離れていかない。

冷静になったとき、かえって頼もしいと感じるぐらいだ。
逆に、すぐ迎合する教師は軽い評価になる。

教頭、教務主任、いや校長にあることないことを言われようが、堂々としていることだ。
そんなことで、校長は先生の評価を下げたりすることはない。

悪いとわかっていて譲るのは教育のプロではない。

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posted by edlwiss at 23:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒指導

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