
その大人の中に、学校の先生もいるわけだが、頼る大人としての先生の限界も感じるようになる。
「先生も先生個人の生活があるんだ」
とわかってくるし、自分の親とは違うということを見せつけられるようになる。
そして、先生が児童生徒を叱る基準は、先生自身の不利益に基づいたものだと思うようになる。
ある小学校で、親から、子どもが帰宅しないという連絡があった。
一度は帰宅したものの、何かのことで親に叱られて家を飛び出して帰宅しないというのだ。
通報を受けた学校は、校長が緊急に職員を集め対策を考えた。
校長はビクビクしていた。
親としては、学校に何か責任を問うというものでなかったし、当然、学校に責任があるというものではない。
だが、校長は気が小さい人で、評価を気にしていた。
もし、子どもに何かあったら、教育委員会から日頃の生活指導について報告をしなければならないということになるからだ。
校長が考えたことは、生活指導には怠りはなかったという弁解がほしい。
校長は職員に向かって、子どもを探すように指示した。
職員たちは、大変だなあと思いながらも、その気になっていた。
ところが、校長の探せという指示の範囲が、あまりにも狭いもので、そんなところに子どもがいるはずはないというところであった。
それには、職員たちは唖然として、逆にやる気をなくした。
ある正義感の強い先生が
「校長先生、そんなところ探してもムダですよ。それとも、探すふりをせよと言うのですか?」
と言った。
校長は
「そうだ」
と答えた。
校長は、とかく校長室で新聞を読んでいるだけだなどと、批判する人がいるが、学校が平和で暮れているのならそれでも良いと思う。
校長が毎日、新聞を読んで暮れていく学校なんて、とてもいい学校だと思う。
だが、いざという時、緊急事態の時、どう判断力を示すかということで価値が問われるものだと思う。
校長でなくても、一般の先生とて同じである。
大事件でなくても、日常の生活の中で、こんな時先生はどうするのか?と試されている時はある。
特に、子どもが失敗した時、先生がどんなことを言うか気にする。
その声のかけ方一つで、信頼関係は大きく変わることがある。
本当の教育というのは、非常時に作られていくとも言えるように思う。
「そんな先生いないよ」
との子どもの言葉は、先生と子どもの距離を端的に表している言葉とも言える。
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