2008年01月10日

教えることは学ぶこと

1月5日は同窓会が2つ重なってしまった。
時間がずれていたので、どちらも参加することができた。

一方は教え子の同年会で、嫌われていた先生であったとしても、教え子にとっては、自分のクラスの先生だけいないというのはよくないだろうから、万難を排して参加しなければいけないと思っていた。

教え子と言っても彼らはもう親である。
昔のことを思い出すと、自分の未熟さを感じて恥ずかしい思いがする。

あのころ、彼らには、人の心の美しさをもらって、感謝するのは私の方である。
思い出すと、涙が出てくる。

私の母親は
「へえ、お前が先生!」
「お前が、ちゃんと先生できるのかねえ」
と言って心配していた。

そうかといって、我が子の働く場面を見ることはできない。
その母がガンで入院して、6ヶ月後に亡くなったのだが、人の子を預かるという大切な仕事がしっかりできているかということを心配していたのに違いない。

そういう心配を払拭してくれたのが当時の3年6組の彼らだった。

母はきっとニコニコして天国へ旅立っていったに違いない。

「親孝行をしたいと思うときには親はなし」

の言葉のように、何も親孝行をすることができなかったことが悔やまれるが、彼らが人生最高とも言えるプレゼントをしてくれたことに、私は感謝している。

また「人を信ずる」ということを、身をもって示してくれたのも彼らである。

同窓会に参加してみると、その彼らの暖かい気持ちは残っていた。
最近は個人情報保護で名簿を作ることは少なくなってきたのだが、彼らはクラスの名簿を作ってきて

「先生、悪用しないようにね」

と言って渡してくれた。

bukatsudo.jpgもう一つの同窓会は、珍しく部活の同窓会だった。
某中学校へ6年間勤務したとき受け持った吹奏楽部の生徒たちが集まった。
これも、係が名簿を作ってくれて渡してくれた。
住所、電話番号を調べるには大変だっただろう。

彼らも、もう親である。
音楽を続けている者もかなりいた。
アマチュアでやっている者、プロの指揮者、フリーの演奏者、大学教授、小中高の先生など。

話を聞けば、私が教わることの方が多い。
なのに「先生」と言われて「先生のあのときの教えがよかった」などとお世辞を言われると、肩身のせまい思いがする。

これも、暖かみのこもった会で今年はとてもいいスタートを切った感じである。

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タグ:同窓会
posted by edlwiss at 12:12 | Comment(0) | TrackBack(1) | 授業

2007年12月07日

指導案通りにいかない授業はよくない授業か?

教師は研究授業ともなると、指導案作成に追われる。
練りに練った指導をもとに、授業を行った結果、その通りにいかなかったということはあるだろう。

自分で投稿しておいて恐縮だが「指導案通りにいかない授業はよくない授業か?」とのタイトルそのものが、実はよくないと思う。

予定通りにいくいかないだけで、良い悪いは言えないと思うからである。
だから、予定通りにいかなかった授業も、

1.予定通りにいかなかったが良かった授業
2.予定通りにいかず、よくなかった授業

に分かれる。

一方、予定通りにいった授業もそれだけでよかったと言うことはできず、良い授業、悪い授業に分かれる。

それでは、何を基準に良い授業、悪い授業を見極めたらよいのだろうか?

それは、主体である児童生徒の活動を中心にみるべきである。
予想以上に、児童生徒の活動が活発になり、盛り上がった授業は予定通りでなくても良い授業である。

これはコンサートにも似ている。
アンコールは観客が感動して、それに応えるため演奏される場合である。
だから、アンコールはもともとは、演奏された曲、あるいはその一部を再び演奏するのが起源だった。

音楽史を調べると、観客が感動し、5回も繰り返し演奏しないと収まらなかったという記録もある。

授業も、児童生徒の心が高まって、予定通りいかなかったとしたら、それはすばらしいことである。

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posted by edlwiss at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 授業

2007年10月13日

教育者の視点

教師をしている人の中には、どうしても「教育者としての視点」が欠けているのではないかと思う人がいる。
なぜなら、最近多いのが「子どもが悪いから授業ができない」という意見が多いからだ。

こういうことを言うと「それは、あなたが現場を知らないからだ」という声も返ってくる。
学級崩壊という言葉があるように、今の小学校の荒れ方はかなりのものだと言う。
授業中、席を立って後ろで友だちとトランプをする。机の上を立って歩く・・・等々。
そりゃあ確かに大変だ。

しかし、教師とは「何をする人か?」と考えてみたことがあるのかと言いたい。
そういう、躾のなっていない子どもを前にしても、自分の頭の中にある指導案で授業をしようと思っていないか?

別の言い方をすれば「履きたい靴に足を合わせようとしている」ようなものではないか?靴を買いに行って、靴のサイズが合わない時、靴屋が「靴に足を合わせてください」と言うだろうか?
靴屋は、お客さんに合う靴を用意するか、靴を直すかして足に合うようにするのではないか?

回りくどい言い方になったが、プロ教師なら、指導の対象の子どもはどんな子どもでもいい。
その子どもを、そのレベルから少しでも引き上げるのが仕事ではないのか?
サリバン先生は「私は目の見える生徒でなければ、教えられません」と言っただろうか?
「私の指導案のように、授業が進む子どもを用意してください」というのはおかしくないか?

教育者の視点からすれば、教師である自分を中心(視点)にして、授業をするのではなく、子どもの現状を中心(視点)にして授業を考えるのが正しいのではないか?

落ち着いて座ることさえできない子どもには、落ち着いて座ることができるような指導から考えたらいいのではないか。

ヘレン・ケラーはどう教育されたか―サリバン先生の記録

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posted by edlwiss at 00:03 | Comment(5) | TrackBack(0) | 授業

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