2013年03月20日

勝者がいれば敗者もいるのが勝負事

学校の体罰が問題になっていると思ったら、日本を代表するスポーツ界でも体罰が問題になっている。

スポーツは健全な精神を育むものではなかったのか?

どこか歯車が狂っているのではないだろうか?

何のために競争があるのか、原点に戻って考えてみたいものだ。

人と人が競争しあってレベルの高いものを作っていくのではないか?

某中学校の吹奏楽部は、全国大会出場の常連だった。

卒業生たちが同窓会を作って、夏休みには演奏会を開くようになった。

その準備に集まるのは、ほとんどが全国大会出場の常連になるまでの者たちだ。

つまり、全国大会代表にならなかった時の者が、下働きに来るのだ。

競争で一番育った者は、コンクールで敗者を経験した者たちばかりなのだ。

また、某一流企業では新入社員を全国から集めて数ヶ月の研修を行うが、ここで毎年何人かの自殺者が出るという。

研修のスタッフは「負けたことのない弱さでしょう」と言う。

ここの新入社員は、ほとんど超難関大学の出身者である。

■勝者がよくて敗者がだめだという錯覚に陥っていないか

勝負は決闘ではないので、敗者が死んでしまうということはない。

銃や刀は昔は人を殺すものであった。

そういう時代には、敗者は負けが死を意味していた。

しかし、なぜそんな人殺しの道具を使っていたものが競技になったのか?

それは、人としての精神を鍛えるために意味があるからだ。

だから、剣道はもとは剣術から剣道になったのだ。

柔道も然り。

優勝してしまうと、上がないからかえって、リーダーは次の目標をどうしようと悩むことが多いだろう。

今度は追われる立場になるわけだから。

そう考えると、むしろ負けた方が学ぶところが多いとも言える。

もちろん、力の限り尽くして負けなければ意味がないのだけれど。

■負けたことのない人間は弱い

私は、特に青春時代は負けを経験し、悔しい思いをした方がよいと思う。

悔しい思いが、甘さをなくし強い精神を作る。

小学校の時教わった「麦踏み」だ。

今でも覚えているが、伸びてきた麦の芽を踏んでしまうのは、衝撃だった。

「そうやって、冬の寒さに堪えられる強い麦ができるんだよ」

と先生から教わった。

高校生ぐらいの時だったと思うが、映画「王将」を観て涙が出てきた。

ohshou.jpg「勝ち」しか価値がないと思っている人は、一度この映画をみてもらいたい。

私は本当の勝者とは何か、この映画知ったような気がする。
勝ち負けにどういう意味があるのか、この映画(原作:北条秀司)はよく教えてくれる。

■人生にスタートはあるがゴールはない

これもいい言葉だ。

誰が教えてくれたのだろう。

今日の勝者は明日の勝者とは限らない。また、明日の勝者は次も勝者とは限らない。
こうして、勝負は延々と続いてみんなが成長する。

WBCも日本が負けて勝者が変わった。
かくして、野球が世界的にレベルアップする。

ドミニカ共和国、優勝おめでとう。

山本監督、ご苦労様でした。

こんな重圧に耐えて、監督ができる人はそうはいないと思います。

あなたを代表に選んだとということは、どんな結果になろうと引き受けたということです。

私は多くのことを学ばせていただきました。

ありがとうございました。





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2012年06月27日

人間関係

ningenkankei17.jpg
学校に限らず、一般の職場でも働く人が悩んで辞めたいと考えるのは、人間関係の問題が一番多いようです。

いじめは、子どもの間に限ったことではありません。

大人同士でもあるわけです。

学校では、教育をどう推進していくかを考える前に、職員の人間関係を良好に保っておく必要があります。

先生同士の人間関係がギクシャクしていては、子どもには悪影響しかないでしょう。

そういう意味では、先生は自ら、お手本という意識を持って職員間の人間関係を築いていかなければなりません。

上司にあたる人は、リーダーとしてより意識を高める必要があると思います。

大きな心で、後輩を育てる意識が必要でしょう。

先生たちが自ら範を示さなくて、子どもたちにだけに「ヤレ」というのはおかしいと思います。

私は当初、教員をやっていくことをためらっていました。

しかし、校長をはじめ先輩たちの暖かい気持ちに支えられて続けられたと思います。

その頃の先生たちの会が、未だに毎年とぎれることなく続いているのは、みんな心に残った経験をしたからだと思います。

毎年、夏休みに集まっています。

最近はストレスが多いせいか、精神的に影響を受けてコミュニケーションがうまくいかない先生がいると聞きます。

先生の心が安定していないでは、良い教育はできないですね。

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2011年10月21日

損害賠償を求められる恐れ



誤って済むものかと思っていたら、損害分を関係者に求められるらしい。

学校施設の管理、点検は怠りなく。

posted by edlwiss at 08:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2010年07月10日

世界はソフトウエアに支配される

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明日は投票日である。
今ひとつ選挙は盛り上がらないような気がする。
それは、今までことごとく政治が国民を裏切ってきたせいで、信用をなくしているからなのだろうか?

さて、論戦だが、これも今ひとつピンとこない。
私は今まで何度も述べてきたが、経歴というものをあまり信用しないことにしている。
特に、学歴ほどあてにならないものはないと思うようになった。

人が出世を考えるとき、各種の試験を突破して肩書きを持つ必要があるのかも知れない。
だが、それはただ試験を突破したというだけで、必ずしもその人の実力になり得ていないという気がする。

試験を突破して自分の経歴に重みをつけるというのは、与えられた課題をこなしていくということである。
これは、与えられた課題はこなせるが、自ら創造的な考えを持って優れた知恵を生み出すというのとは異なる。

もうずいぶん昔のことだが、ある経営者の言った言葉が強く印象に残っている。
それは、今の人は与えられた仕事を遂行することには優秀だが、自分からということがないということである。
これは、もう今では当たり前で、仕事というのは与えられたことだけすればよいというのが普通になってしまっているのかも知れない。
そのせいか、経済学者も政治家も自分の言葉と言ったら、中身のない言葉しか発しないようになってきている。これも与えられるものだけをやってきたという弊害ではないか。

今、不景気だと言っているのも、仕事がないという悩みであるが、それは人が仕事を与えてくれるのを待っているのではないか?

外需とか内需とかいう言葉が出てくるが、外需は外国をあてにしていることであるし、内需だってだれかが物を買ってくれるのを待っていることである。
日本はモノづくりが得意と言っているが、モノづくりはいずれどの国も差がなくなってくると思う。
そうすると、資源を輸入し付加価値をつけて輸出するというパターンは次第に通用しなくなる。

今、ものを支配しているのは加工技術ではなくソフトウエアである。
工作機械がNC工作機械となって、それまで人が操作していたものにコンピュータが加わって、機械に知力が付加された。
そして、機械に付加された知力とは機械を動かすプログラム、すなわちソフトウエアなのである。

ブレーキのことで問題になったトヨタのプリウスも、その修理は部品の交換ではない。
プログラムの変更である。

今や、あらゆる工業製品はソフトウエアで動いていると言ってよい。
そのソフトウエアを海外に依存していては、知恵を握られているようなものである。
実際、ある電気メーカーでは、液晶テレビに搭載するプログラムを外国に頼っていたので、その開発の遅れで、製品の販売も遅れた。

ソフトウエアは資源を必要としない。
必要とするのは人間の頭脳である。
日本はつまらない受験勉強で、若者の青春を封鎖することなく、子どもの自由な発想を伸ばし、優れたソフトウエアを開発できる土壌を作っていくべきだと思う。
posted by edlwiss at 19:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2010年04月14日

不祥事防止へ心構え9ヵ条

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公立校教員にカード配布(愛知県教育委員会)

なんとも情けない話。
情けないのは教員ではない、教育委員会である。
教員を指導する立場の、教育委員会が、自分たちは教育については素人ですと宣言したようなものである。

わいせつ行為や情報流出など相次ぐ教員の不祥事を受け、県教委は不祥事防止の心構えを記した名刺大のチェックカードを作り、名古屋市立を除く県内の公立小中学校や高校の全教員四万九千人に配った。・・・
(4月14日・中日新聞)

私がまだ自動車の運転免許を持っていない頃、ある人の車に乗せてもらったとき

「車の運転なんか簡単だ、こうやってハンドルを持ってるだけで・・・(中略)運転がうまいか下手かはいざという時の対処ができるかどうかだ

と教えてもらったことがある。

これは、他のことにも通じるところがある。

緊急事態の時、適切な対応ができるかどうかがプロかアマチュアの違いなのだ。

「校長は毎日、学校へ来て新聞を読んでいるだけだ、あれで給料をもらっている」と批判した人がいるが、それは全く見当違いの批判だ。

校長が毎日、新聞だけ読んでいればことが進んでいく学校はすばらしい学校なのだ。
会社だってそうだ。社長が暇そうにしていても、経営が成り立っていく会社は社長のリーダーシップがすばらしいとも言える。

教育委員会も、管轄下の学校経営がうまくいっていて、暇なら、大変結構なことだ。

しかし、教育に携わる者の不祥事が相次ぐということは、教育としては非常事態なのだ。
こういう時こそ、教育委員会の指揮がものを言うときである。つまり、さすがプロと言われるリーダーシップがとれなければならない。

不祥事防止への心構え9ヵ条のカードを配布とはまことに情けない。

不祥事を起こさないためのチェックリスト(概要)
□個人情報を持ち出さない!
□体罰と誤解されるような指導をしない!
□よそごとを考え、車のスピードを出しすぎない!
□飲酒運転は犯罪という意識を失わない!
□児童生徒と安易にメールのやりとりをしない!
□安易に児童生徒と個室で面接をしない!
□セクハラ(性的嫌がらせ)と疑われるような態度や発言をしない!
□部活動費などを一時的に立て替えに使ったり、不正な処理をしない!
□不祥事を起こしたら、信じてきた教え子がどう思うかや、あなたの家族の悲しみを考えて!


まず、教育委員会のあなたたちが採用した教員は、こういうことをいちいち書いて教えなければならない程度の人たちなのか?
という疑問が起きる。

そして、教条的に「・・・をしない」と言えば、それで指導が成り立つと思っているのか?

ということである。

rittukaruton.jpg指導とはどういうことか?

現場における生徒指導でも、生徒の不祥事が起こると、学年集会を行ったりする。
そこで、生徒指導担当が、自分の憂さ晴らしのようなお説教をして反感を買えば、逆効果である。

効果的指導とは、指導を受けるものが心を動かされる指導である。感動する指導である。

今回の教育委員会の指導は、果たして、教員の心をうつことができるか?

むしろ、反感を買うことはないのか?

民間企業の教育の方が遥かに上を行っていることを、教育委員会は知るべきである。
さしあたって、ザ・リッツカールトン・ホテルの経営に学んだらどうだろう。

教育委員会は、リッツ・カールトンで働いてみるとよい。
posted by edlwiss at 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2010年04月04日

教育の知ったかぶりバカ

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bakaoya.jpgモンスターペアレントと呼ばれる、思考回路の破壊された親も困るが「教育を知っていると自認している親」も始末が悪い。

楽器の運指がメチャクチャの子どもがいたので、それを正しく直そうとしたら「あなたは子どもを型にはめようとしている」
と言われたのには参った。
そんな風に、親が教師の指導に口を挟むものだから、子どもの方は5年以上も習っていても、驚くことに1曲も弾けるようにならない。

今回は、また別の「教育の知ったかぶりバカ」を紹介しよう。
昨今の新任教師の一番の課題は何かな。其れは、指導案作りだ。
 薄っぺらい教科書を補って、子供達に、どう理解させるかを微に入り細に亘って作り上げる。で、その指導案に基づいて完璧な授業をする。で、子供達はその1時限の授業で、目的とする課題を全て習得できたか。
 成る程、確かに、立派な授業は出来た。先輩教師に見せても非の打ち所はないと言うだろう。で、子供達はどうだ。優秀な指導力のあるベテラン教師の授業ははどうだ。成る程、その場では確かに、子供達は、完璧に理解できたと考えたかもしれない。
 でも残念ながら、人間は忘れることを常にしている生き物だ。忘れなければ生きてゆけないからだ。どれ程に優秀な教師の、優れた授業であっても、忘れてしまえば其れまでだ。もう二度と同じ事が繰り返されないとすれば、忘れてしまった事柄を取り返すことは出来ない。
 子供達にとって、優秀な教師の立派な授業は、こうして意味を失う。いったい何回繰り返せば、教科書に書かれていることを、完全に習得できるか。では限られた時間の中で、教師はいったいどれ程に繰り返して教えることが出来るか。子供達の能力は、千差万別だ。1回で覚えてしまう子供も居れば、5回も6回も繰り返さなければ覚えられない子供も居る。
 優秀な教師が、立派な指導案をつくって、子供達が誰もが理解できる授業をしても、忘れてしまえば其れまでだね。其れが、実は限界だ。
 解決策は二つある。一つは、全員が、忘れなくなるまで繰り返すことだ。
 ま、全員は無理としても、過半数か、6割かで妥協しても良い。
 其れは例えば、九九だ。だが、その他の授業では何時もそう言う訳にはいかない。
 ならば、忘れてはいけないことは教科書に書いておけばいい。そうすれば、忘れたと思ったら、子供は、自分で教科書を読み直せばいい。実は其れは決して難しいことではない。でもどういうわけか、文科省も、教育の専門家も其れをやろうとしない。
 実は簡単なことだ。其れは、子供達に、論理を教えることだ。子供達は論理に飢えている。ここで言う子供達の欲する論理とは、物事の筋道だった説明だ。其れで、理解し納得できれば子供達は其れで安心してその論理を繰り返して使うことが出来る。
 ところが、その安心して考えるための筋道を与える言葉を教えることをくそ暗記を強要することだと考えているらしい。
 例えば、分数だ。小学校では、真分数や、仮分数や、帯分数や繁分数という言葉を教えない。通分とか、約分とか、の言葉も教えない。
 言葉を教えないから、論理が成立しない。論理が成立していない状況で、課題を解くためには、いちいち成り立ちや、有様を考えて或いは、膨大な、凡そ考えられないような数のパターンを覚え込まなくては、こたえをみちびけない。
 だから分数の計算が出来ない。分数の引き算は、帯分数は、仮分数にして、真分数はそのままで、通分して、分子の引き算をすれば良いと教えてしまえば、其れで全て出来てしまう。割り算は、割る数の分母と分子を逆にして掛ければよいと教えてしまえば其れで答えが出せる。
 或いは、繁分数にしてなかなか分母外分子とやればそれで良い。
 小数を分数にするには、小数点以下の桁数が一桁なら10で、2桁なら100で、3桁なら1000で割って、約分すると教えてしまえばそれど終わりだし、分数を少数に直すなら、仮分数にして、分子を分母で割ればよいと教えてしまえば其れで終わりだ。
 その簡単なことを、教科書に箇条書きにして、いくつかの例題と、例解を与え、いくつかの演習問題を与えて形として示しておけば、子供達は、教師の指導案などなくても、分数の計算は理解できる。そして、分数の計算がスラスラと理解できるようになって初めて、分数の構造や、使い方や、応用が出来るようになる。

 初めに形を教える。其れで、誰もが分数の計算を先ず出来るようにする。
 たったそれだけのことを、昨今の教科書は全くしていない。

 教科書に、分数の計算の仕方が書いてあれば、教師は、其れを、そのまま黒板に書き写して、棒読みして、子供達が、怠けずに、指示されたとおりに指示された手続きを実行し繰り返していれば、分数が理解できるようになる。

 つまり、教師に能力など要らないし、余計な指導案など作る必要もない。
 教師に必要な責務は、決められた年間の時限の中で極められた通りに予定をこなすことだけだ。
 教師が説明して補わなければ理解できない教科書は、既に使い物にならないのだ。

まず、これを読んでみて、こういう一種のバカ親にはどう対処すべきか?
一度、授業をやらせてみるか?

その前に、この親は何が誤っているのか分析してみることは、現役の教師には役に立つかも知れない。
もし、こういう親に出会う機会があった時は、当然、こういう親はプライドが高いので、話し方から注意すべきだろう。

学校の先生もなめられたものだと思う。
posted by edlwiss at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2009年12月02日

4か月の長女を虐待

自分の子どもを、親が虐待するというニュースも珍しくないが、今日のニュースには寒気がした。

自分になつかないという理由で、23歳の父親が4か月の長女を虐待したというものだが、腕をねじったりして骨折したということだ。
母親が見つけて病院へ連れて行ったところ、両手両足とも骨折しており、全部で10箇所の骨折があったということだ。
想像しただけでゾッとし、寒気を感じた。

自分になついてくれないから、苛立つ気持ちはわかるとしても、それほどまでに暴力をふるって、長女の受ける痛みに平気でいられるという神経が
わからない。

gyakutai.gif
やはり、世の中は何かが間違っているのだろう。
経済重視で突っ走ってきた政策の反省、いや政策だけでなく、ほとんどの国民は経済的貧しさから脱することを望んで
いたのだろうが、反省だけでは何も解決しない。

学校の先生は大丈夫か?
自分のクラスの子どもは生き生きとしているか?

私は新卒時代からの、時を同じにした先生たちとの同窓会に毎年出席しているが、私よりずいぶん先輩の先生が、
昔、宴会になると「あんたのクラスはいいクラスだ」とよく言ってくれた。
私が、どういうことだろうかという気持ちでいると「あんたのクラスの子どもは『子どもらしい』」と言われた。

指導が云々だけでなく、私はそのたびに嬉しくなった。

これは、私自身も子どもと一緒にいることが楽しく夢中になって、あれこれ探求していた気持ちが伝わったのかも知れない。
そう言えば、私は「笑顔」を見るのが好きだ。

人の笑顔はもちろん。動物とて同じだ。

外出したとき、ネコに会うと、表情を見る。
元気がなさそうだと「おい、どうしたんだ」と声をかけてみる。

変な顔つきで、スタスタと行ってしまうネコもいるが、時には「ニャー」と返事をしてくれたり、親しげにすりよってくるネコ
もいる。

ネコだけでなく、寂しそうな子どもを見たら、声をかけるような世の中であってほしい。

事件によい事件なんてものはないが、年を追うにつれ心が寒くなるような事件が増えてきたような気もする。

学校はいつしか「誰もが主役」でなければならないようになり、誰も平等、公平という気持ちは大切だが「何でも思うように
なる」という気持ちを増大させてこなかったか?

好きな人に振られたら、ショックを受け、呆然となり、世の中が真っ暗になる・
このような経験を、青春時代にした人もいるだろう。

だが、そこから立ち直り、強くなり、よりやさしさという心を作ってきたように思うが、このごろは、自分が好きだ
と思った相手は、自分を好くのも当然だという誤ったこころが育ってきたように思える。

「子どもを大切にすることは、何でも言うことを聞いてやってわがままにすることではない」ということは、当然、先生なら
知っていることだと思うが、最近の親の感覚はどうなのだろう?

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2009年11月29日

バカの壁

bakanokabe.jpg「バカの壁」は養老孟司氏のベストセラーであり、以前とりあげたことがある。
人の思考について明快に記述したものであり、その後、日常生活の様々な場面で思い出すことがある。

最近は「バカの壁」と言うか「人間の壁」と感じることさえある。
どのように書き表すと、私の言いたいことが伝わるのだろうかといろいろ考えた。

そこで、一つの説明の仕方が浮かんだ。

犬は賢い動物である

これは、まあたいていの人は認めるところであろう。
だが、犬にも限界がある。
それは「犬の壁」とも言えるのだろう。

犬がいくら賢いと言っても、知能の発達には限界がある。

飼い主がろくなえさをくれないなど、不満があって、何らかの訴えを起こすにしても、声を出す、態度で示すぐらいであって、あまりにも自分のことを理解してくれない飼い主に反抗をするために、ある日、落とし穴を作って、飼い主がそれに引っかかるのを策略するなんてことはないだろう。

また、犬は車に乗って外の景色を見るのが好きだと言うことだが、ある日、飼い主の目を盗んでキーを手入れ、こっそり運転するなんて知恵まで回らないだろう。

つまり、犬には「犬の壁」があるのだ。

人によりいろいろな壁がある

これが、いわゆる「バカの壁」なんだが、バカとまで言えなくても、人間という一括りで考えるとわかりにくくなるが、人間にもいろいろあると考えた方がわかりやすいと思う。

人と話している時に、私はやはりよく「壁」を感じる。

例えば「生徒の行動についても、校長が責任を負っている」という説明をしても、某高校では、生徒が理解できなかった。

「何で、私たちが好きにやることが、校長先生に責任があるの?」

この考えから一歩も出ることができない。
「壁」なのだ。

だが、某日、中学生が自宅へ遊びに来たことがあった。
そして、いろいろ話をするうちに「せっかくここまで来たのだから○○で遊んでいこう」という者がいた。
すると、別な者が

「ダメダメ、そんなことすると先生が叱られる」

と言った。

私は「ほう」と思った。

校外においても、担任のことを頭に浮かべる中学生に感心したのだ。

他の中学生も納得した。

この中学生たちは、先ほどの高校生たちより壁がない。

勉強についてもそうだ。

「外人と話す訳じゃないし、英語なんて勉強しなくたって」

とか

「方程式なんか勉強しなくたって、買い物はできるし生活には困らん」

と言って、学校では「何でこんなことまで勉強しなくっちゃならないんだ」と文句を言う者がいるが、本音でそう考えているとしたら、やはり、そういう者には大きな壁があると言えよう。

生徒だけでなく、先生にだって壁はある。
特に、自分は何でも知っているという口のききかたをする人は、やはり壁があると言えるだろう。

「・・・した方がいいに決まっとる。・・・した方が得だ」

という言い方をする人にその傾向が強いように思う。

私が、どうしたら子どもたちが、漢字に興味を持って学ぶようになるのだろうと考えていたときに、ある実践で、子どもはひらがなより漢字の方がよく覚えるという実践があったのを知った。

これをある先生に話したら

「そんなわけはない。ひらがなのほうが、こうやってこう書けば簡単だから、漢字より覚えやすいに決まっとる・・・」

とバカにされたことがある。

そういう先入観があるのだが、事実そういうことがあるというのはなぜだろう、というところまで考えが及ばないのだ。
私は、この人と話してもダメだと考え、それ以上の対話はやめた。

そういう自分も、自分を取り巻いている壁は何なのだという、自問自答を繰り返し生活することが大切だと思う。
そうしなければ「いつまでも、落とし穴が掘れない犬と同じになってしまうと思うからだ。

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2009年10月08日

頭のおかしい教師

中学校3年生はいよいよ高校入試を目指して、火がついてくるころだ。
担任も忙しい。

成績にはデリケートになる。
だから、保護者の中には自分の子どもの成績に不審感を抱いて、学校へ問い合わせる者がいたりする。

非常に大切な成績、評価だから、当然に教師も慎重にやると思う。

だが、変な教師がいて、昔、大喧嘩したことがある。

成績は競争でもあるから、公平が一番大切である。

そこで、成績を出すパソコンのプログラムを作ったことがある。
先生方の意見を取り入れ、項目別に重み付けができるなど、いろいろな要素が盛り込めるようにした。

ほとんどの教師は納得していたが、一人、意見を言う人がいた。
その人は、出た結果に不満だったようだ。

「このやり方では、心が伝わらない」

と言うのだ。

それでは、心が伝わる成績のつけ方とはどんなやり方なのだろう?

自分が思うには、この生徒はもっと上位にしたいとか、反対にこの生徒はもっと下だというのが、具体的なことなんだろう。

それでは、なぜ、そう思うのかということが大切なことだ。

パソコンのプログラムが出した成績に納得がいかない、というのは必ずしも悪いことではない。
だが、成績はあくまでも公平でなければいけない。

公平ということは、競争のルールが明らかになっているということだ。

例えば、実技のある教科ならば、実技の割合、ペーパーテストの割合がどの程度なら適切かという具合に。

それは、スポーツで言えば、スケートで課題、フリー、芸術点などに分けて点数化するようなものである。

競争のルールを明確にし、結果を出す過程で私情が入らないことが公平でもあり、それこそ心が伝わることだと思う。

よく練った競争のルールで出した結果に、気に入らないからと言って、もし手を加えるなら、それはひいきでありもっとも悪い心を教師が持っているということである。

ひいきすることが、心が伝わることと考えるなら、それは頭のおかしい教師である。

もう一人、頭のおかしい教師を思い出す。
その教師は、校長に呼び出されていた。
なんだろうと思ったら、成績のつけ方のことであった。

不登校の子どもがいて、まるっきりその学期は登校しなかった。
だが、その子どもの評価が5段階評価で5がついていたので、校長が呼んだのだ。

校長が言い分は

「まるっきり出席しないのに5とはどういうことだ」

ということだったが、当然のことである。

その教師の返事は

「この子はこういう子です」

だった。

その後、その成績を修正したのかどうかは知らないが、私がその教師に聞いてみると、やはり

「休んでいたけど、あの子はああいう子なんです」

と言った。

言わんとするところは、つまり、ずっと欠席はしていたが、その子は頭がいいので、そのくらいの成績で当然だと言いたかったわけである。

しかし、思考にバランス感覚のある教師なら、当然、それはおかしいと思うはずである。

いくら優秀でも、競技に参加しなかったら評価されないのが当たり前なのだ。
そういう根本的なことが理解できない、頭のおかしい教師であった。

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2009年10月06日

しのびよる貧困 子どもを救えるか

10月4日(日)午後9時NHKスペシャル「セーフティーネット・クライシス Vol.3しのびよる貧困 子どもを救えるか」
は身につまされる思いでみていた。

世界第二位の経済大国って何だろうと思う。

今年は伊勢湾台風上陸から50年目ということで、いろいろ報道されているが、そのころ私は中学1年生だった。

家が海岸に比較的近かったため、その惨状はよく覚えている。

朝、学校へ行こうとしたが、道路自体が瓦礫に覆いつくされていて、てつものようには投稿できなかった。

いつもより時間がかかって、学校に着くと、校舎の屋根はなくなっていて、運動場も三分の一が波にさらわれてなくなっていた。
1959年(昭和34年)のことだった。

50年経って、日本は豊かになったか?

私のうちは貧しく、私が小学生のころは鉛筆を削るものがなく、包丁で削ってもらっていた覚えがある。

そのころの日本は普通程度の家でも、中卒で就職して働くということは、珍しくないというか多かった。

この時代、高校生はエリートだった。

中学校での成績が1、2番という生徒でも就職した者がいた。

同級生は約300人ほどいた(各クラス50人で6クラス)が、先生が「高校へ行くというからには60番までだ」と言っていたのを覚えている。

生徒たちの認識と言えば、30番つまり1割だったと思う。
そのぐらいでなければ、親に進学したいなどとは言えなかった。

兄弟のある家では、兄が家計のため就職し、兄が弟に

「兄さんが働くから、お前は高校へ行けよ」

なんて言葉も聞かれた。

私の家は、ただでも貧しいのに、中学2年のとき父親が交通事故で亡くなってしまった。

私は当然就職するのは当たり前と思っていたから、進学希望者向けの放課後の特別授業も受けなかったし、部活も3年の終わりまでやっていた。

ところが、母親と先生は進学させる相談をしていて、入学試験近くになって、急に高校を受験するように言われて驚いた。

もちろん、滑り止めの高校を受けることもなく、受ける高校がどんな高校かということも知らず、言われるがまま普通科を受けた。

ろくに勉強もしなかったので、合格する自信は全くなく、発表も見に行かなかった(見に行く勇気がなかった)が、友人が見てきて教えてくれた。

一応、高校へ行けることにはなったが、親の経済力は未知数。
覚えているのは、奨学金が毎月1500円もらえたのは覚えている。

このころの1500円というお金の価値だが、そのころの物価と比較すると検討がつくのではないかと思う。

中卒が普通程度の給料で5000円もらっていた。
週刊誌は30円で、30円硬貨を発行したらどうかなどという冗談も聞かれた。

ラーメンは50円。

公立高校の授業料は確か、月800円だった。

高校は木造の建物だったが、美術的にも重厚で立派だったののが心に残っている。

それに引き換え、今の公立高校の建物は鉄筋だが、ただの入れ物という感じで、美術的に感動するという面は皆無である。
学びの場だから、校舎が学ぶ者に与える印象も大切だと思う。

こんな時代だから、今や普通科と言えば、進学校というイメージで全員が進学のスケジュールで学んでいるが、この頃は普通化でもかなりの人数が就職していった。

就職先も一流企業、銀行など一線での仕事で活躍していた。

またまた、私も当然就職するつもりでいた。

でも、せっかくだから試験だけでも受けてみようと思い、試験を受けることだけを許可してもらった。

覚えているのは、国立大学の受験料が1500円。
親に出してもらった1500円で2日間の試験を受けた。

予定に反して合格してしまった。

でも、大学となると、いくら必要かもわからず不安だったが、合格通知を見ると、一ヶ月の授業料が1000円で、これを入学手続で半年分収めることになったいた。

入学時に収めるお金は、この半年分授業料を含めて18000円だった。

この18000円は母親が出してくれた。

このころ、大卒の初任給が22000円〜23000円程度だった。

今の国立大学は入学時にいくら収めるのだろう。
NHKのテレビでは、高校の先生が生徒に80万円ぐらい必要と言っていた。

現在、大卒の初任給が20万円ぐらいだから、入学金はその8倍ということになる。
私の頃は大卒の初任給より低かった。

同じ程度なら、現在、大学の入学金は20万円ぐらいでなければいけない。

授業料が月1000円で、奨学金を月4500円くれたから、その割合で行くと、今の学生は授業料の4.5倍はもらっていなければいけない勘定になる(それでも、同じなのだから、経済的に豊かになったとは言えない)。

しかも、その奨学金は返さなくてよいものだった。
現在の学生が、就職してから奨学金が返せないことで取り立てに遭っているというのは、非常に不思議な話だ。

ただ、高校でもらった奨学金は返さなくてはならなかった。
だが、毎月200円だったから、全くこのために負担を感じることはなかった。

大学卒業すると、初任給は32000円ぐらいだった。
これは、授業料の32倍である。

現在、大卒が授業料の32倍もらっているだろうか?
授業料が月4万円とすれば、128万円の初任給をもらわなければならないことになる。

良い会社に就職した同級生は、8万円ぐらい給料をもらっていた者もいるので、これで比べたら、実に授業料の80倍である。

こうしてみてくると、日本の国全体では経済大国なのかも知れないが、子どもを教育するための家計への負担は、かなり大きくなっている。

毎日の生活が精一杯の私の家でも、公立なら大学まで行けた伊勢湾台風のころから比べると、現在、国民生活が豊かになったとは決して言えないだろう。

一体、国の金はどこに使われているのだろう?

日本は経済大国になったが、国民生活は貧しくなったと言える。

学校で必要な習字道具が買えない子どもがいるなんて、国として恥ずかしくないか?

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2009年09月19日

学校に怒りを持ち込むなだって?!

「学校に怒りの感情を持ち込むな」といっている人がいる。
誠に妙である。

その人の言うには、

怒りの感情は、体罰の名を借りた暴力となり、教育の名を借りた暴力になりかねない

だそうである。

つまり、怒るとそれが、体罰だと言う理由をつけて、暴力に繋がると言っている。

ここまでで、誠に変と思うことが2つある。

1.「怒りを持ち込むな」というが、人間は怒りの感情を、いや(喜怒哀楽の)感情を自在に、あたかも荷物を持ち込むかのようにコントロールできるものなのだろうか?

2.怒りの感情を持つと、体罰との理由をつけて暴力に発展する恐れがあると言っているが、体罰自体が禁止されているのだから、暴力であろうが何だろうが、相手に身体的苦痛を与えること自体は正当化できないと思う。

そして、この方は、私が(人間として)「怒りの感情は大切だ」と言うと

「結局」は「怒り」の感情を教育現場に持ち込むことを是としているんでしょうに

と答えている。

人間である以上「怒れるときは怒る」のが正常であると思うのだが、怒るべき時に怒らない人って、まるで去勢されたみたいでどこかおかしいんじゃないかと、私は思う。

朝、学校へ行ったら校門に落書きがあったとしよう。
これを見て、怒る先生や生徒が正常な人間だと思うのだが、こういう時「学校へ怒りの感情を持ち込むな」ってどうするんでしょう?

門の前で「オレは怒りを持ち込まない」って叫んでから入るのでしょうか?

文学、音楽、美術に関わる怒りの表現はどうするんでしょうか?

すると、この人はこうも言う。

確かにあなたには、国語(読解力)に問題あるようですね。
私が言っているのは、「育み」の感情から出でた必要に応じた「怒りの表現」です。
「怒りの心」が必要だなんて言ってはいませんよ。

つまり、この人は「怒りの表現」と「怒りの心」は違うというのだ。
そして「怒りの表現とは、育みの感情から出た、必要に応じたもの」だそうだ。

育むとは「養い育てる」ことだが、一体、その「怒りの表現」と「怒りの心」とどう違うんだろうか?

怒りの心がなくて、怒りの表現ができるんですか?

人間て、怒れるときは怒ると思うんですが、いちいち「これは育みのため」とか「これは怒りの心」と区別して怒りをコントロールできるものなんですか?

原爆の実験に抗議して怒りを感じたり、薬害エイズの抗議運動の怒り、飲酒運転の事故に対する怒り、これらはどういう怒りなんですか?

「怒りの心」ではないんですか?

今日は怒らないでおこうとか、この場は努めて冷静になどと理性を働かせることはできるが、人間本来の自然な感情を自在にできるわけがないだろう。

教師はその仕事の手前、常に教育的であるかどうかを自分に問いかける必要はあるが、自分の心と違うことをやらない、つまり裏も表もないあるがままで行くということでなければ、相手に「伝わらない」と思う。
もちろん、あるがままでいいということでなく、あるがままをより向上させる努力が必要であることは言うまでもない。

「学校に怒りの感情を持ち込むな」って、何か、学校を聖域とでも勘違いしているのではないだろうか?
学校で芝居をやっていても、実効性はないと思う。
家庭のゴタゴタを学校に持ち込むなだったら、わからないでもない。
教師は役者ではない。

昨日観た、テレビのロボットの映画の世界ならわからないでもないが、たくさん人のいる社会で予想外の考えをする人がいるかと思うと、気をつけなければならないなと思う。

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2009年09月18日

マニュアル通りやっています

一時、マニュアル教師という言葉を耳にしたが、今はマニュアル教師の問題がどうなのかよくわからないが、社会では私が危惧していた、日本の教育の成果(?)が広まってきたようだ。

最近はインターネットを光にという売り込みが激しいが、こちらとしては「引いてもらえるならいつでもやってください」と申し込み可の表明をするのだが、その後の手続きには閉口する。

住所、氏名の確認に始まり、契約の内容と説明と承諾の手続きをする。
これは、契約上必要なことなのでひとつずつ確認をすることは大切だ。

問題はその後だ。

確かにご契約を賜りましたと言ってから、何日か経って、また電話がかかってくる。
別の会社のようだ。

すると、また同じ確認をするとこういったことが数回続く、そして、そのたびに「最終確認」と言う。

一体、何回最終確認をするんだと言ったことがある。

なぜ、全く同じようなことを繰り返すのだと言ったら「マニュアル通りやってますので」という言葉が返ってきたことがある。

私のところが、このように手間取るには理由がある。

地域的には僻地ではないが(むしろ中心部)、近くに電柱がなくケーブルの引き込みが難しいらしい。
何でも、地中化が進んでいるとも聞いた。
従来の電話の配管を利用するという手もあるらしいが、ビルが古いので、調査してみると、配管上難しいということで終わる。

こちらとしては、高速の光の方がいいので、一刻も早く工事をして欲しいのだが、建物の環境でいつも頓挫する。

市の中心部にありながら、ポツンと光ケーブルが引かれていないところは目立つのか、何度も売り込みがある。

その度に

「光が引けるかどうか一番始めに調査しないと、意味がないじゃないですか?」

と言うのだが、はいはいと言いながら、マニュアルにある通りの順序で住所氏名の確認・・・申込書の作成と進み、何度も最終確認をし、その後現地調査に来てダメとなる。

何回やってもこの繰り返しである。

もう一つ例をあげよう。

宅配便で、荷物が壊れていたという事故があった。
事故そのものは起きてしまったこととしても、その後の対応が悪い。

運送業者は手落ちを認めたものの、何時間も待っていても、何の連絡もない。
しびれを切らして、連絡すると、荷物の発送者に問い合わせているが、まだ確認がとれないから連絡を待っているという。

待っているのは、荷物を待っていた客の方だ。

「今、先方に問い合わせ中なので、しばらくお待ちください」

という連絡がなぜできないのか?

おそらく、マニュアルになかったのだろう。

コンピュータはプログラムされたことしかできない。

人間の価値はマニュアルを実行することだけでなく、非常事態にどう対応できるかという知能を持っていることだと思う。

我が国の教育は、受験中心主義をずっと続けてきた。
受験中心主義というのは、本来の教育ではないはずである。

しかし、受験中心主義の指導が教育と勘違いしている教員がいることも、残念なことであるが、受験中心主義の指導は、点数に結びつく効率だけ求める結果、知能を高める訓練が失われていくことにある。

「ぼうふら」でも「幼虫」でも解答としては差し支えないのだが、模範解答には「ぼうふら」とあるので「ぼうふら」と書いていない解答は×にするという教師を「ぼうふら教師」と言うのだそうだが、試験というのは点数を稼がなければならないので、どううしたら○になるかだけを追い求める結果、わかってもわからなくても、こういう問題が出たら、こう書くんだという機械的な訓練だけを繰り返すことになる。

こういう結果、マニュアル通りは実行するが、それ以外は考えないという人間形成が行われてきたのではないかと思う。

今や、人間が持つ高度な思考、知能を使う人は一部でよいということになってきている。
パソコンも、黎明期は自分でプログラムを作らなければ活用できるものではなかった。
そういう時期は、教員も集まるとプログラムの話をするということがよくあった。

雑誌も、プログラムがよく掲載されていた。

今のパソコン誌はカタログのような本が主流である。

それだけ頭を使わなくもよいようになってきたわけである。

受験に荒れ暮れて、到達したあげくがマニュアル人間では、進化するコンピュータに仕事を奪われることは目に見えている。

人間はロボット化し、ロボットは人間化する。

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2009年07月30日

白いキャンパスに「愛」という字を

seisyokunoisibumi.gif昔観た映画「聖職の碑」(せいしょくのいしぶみ)のポスターに、

少年の心は白いキャンパスだ、私はその白いキャンパスに愛という字を書いてやりたい

と書かれていたのがずっと心に残っている。

「愛」という言葉を使うことには、何か気恥ずかしさもあるが、そうなのだ、子どもに大切なのは「愛」なのだ。

こんなことは、もうわかりきっている。
何度言われてきたことか。

では、私たち大人は少年の白いキャンパスに愛の字を書いてやっているか?

わかっていてもできない。

大人には葛藤がある。
特に教員には

今これだけ熱が入っていること、一生懸命やっていることは、子どものためなのか、自分のためなのか?

シンドラーのリストという映画も有名になった。

私たち大人は時に、シンドラーのような精神状態に追い込まれることもある。

子どもをとるか自分をとるか?

自分には家庭もあるとなると、ますます勇気はなくなる。

松本清張の小説の映画化されたもので、刑事が疲れた顔をしながら小瓶のウイスキーを飲みながら「(人生は)がまんがまん」と言っていた。

無事、警察を定年退職した人に、在職中のことを聞くと、とたんに顔つきが変わることがある。

がまんにがまんを重ねて、自分を消耗し、家族のために働いてきた顔はまさに「男の顔は履歴書」だ。

聖職の碑(せいしょくのいしぶみ)は、中央アルプスの木曽駒ヶ岳における山岳遭難事故を題材とした新田次郎の山岳小説および、それを原作とした鶴田浩二主演の映画。

概説
1913年(大正2年)に長野県中箕輪高等小学校(現・同県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団宿泊的行事として実施された木曽駒ヶ岳集団登山における気象遭難事故の実話に基づき極限状態での師弟愛を描き、「生きること」「愛すること」の意味を問いかけた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2009年07月30日

子どもは特別ではない

たくさんの事件のある大人の社会をみると、大人は汚れているように思い、子どもは純粋だ言い、特別視する人がいる。

こういう人の中には、盲目的に、子どもは天使のように言う人もいる。

これは、自分がある考えで壁を作ってしまって、ものが見えなくなっているようなものだ。
まさに、これはバカの壁だろう。

猫が好きな人の家に行くと、家の中の唐紙は猫のひっかき傷でボロホロ、柱や壁も爪の跡という場合がある。

「すごいですねえ」

と言うと

「猫のやることなら」

という言葉が返ってくる。

猫のやることなら、何も腹が立たないということだ。

子どもを天使のように言う人の中には、そういう状況と似た人もいるかも知れない。

だが、本当に子どものためを思うなら、それは間違っている

悪いことをしたときは、きちんと叱ることが大切だ。
反対に、よいことをしたときにほめることも、忘れてはいけない

犬を訓練している人を見ると、そういうことをきちんとやっている。
基本的には、人間の子どもも同じだ。

最近は、子どもを叱ると抗議してくる親がいる。
そういう親の子どもは不幸だ。

さて、子どもと大人の違いは何だろう?

それは、社会生活の年数の違いだ。
人生経験の違いと言った方がよいだろうか。

子どもから大人になる何年もの間に、人は様々なことに出くわす。


yumenosekkeizu.jpg

「出くわす」と言うのは、よいことばかりではないからだ。
よくないことに出くわした時に、その対処の仕方に個人差が出る。

悪い誘惑に負ける人、負けない人、様々な経験を通して心が曲がったり、すり切れたり、強くなったり、人の心がわかるようになったり、いろいろなものがその人を変えていく。

社会では、よいことをする人より、悪いことをする人の方が目立つ、だから、一見、大人って悪いとの印象を持つかも知れないが、苦労を重ねて、より立派になった人もたくさんいるのだ。

子どもはまだ様々な障害に遭っていないから、心が穏やかなのは当たり前である。

本当の先生とは、大人である自分の環境の困難に打ち勝って生きていくことを子どもに見せられる人だと思う。

いや、そういうことを子どもにわざわざ見せるのではない。
むしろ、自分の中に包み隠して戦っていくことで、自然に子どもに伝わっていくことがいいと思う。

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2009年07月01日

なぜ校長になりたいんですか?

「学校を会社と同じように考えている校長がいた」とかつて話をした。
だから、その人は先生たちのことを部下と呼んでいた。

「部下が・・・」
「部下が・・・」

とその人の話には、やたらに「部下」という言葉が出てくる。

まあ、とても人格はいただけるような人ではなかった。

今日、朝のテレビで「首相にふさわしい人とは」という条件を箇条書きにしているところで「見た目」というのがあった。

エッと思ったが、これもなるほどという気がしないわけではない。

立派な人というのは、やはり、そういう雰囲気を持っていて、その雰囲気が見た目を作っている。

ただ「見た目がよい」という、見た目は個人によって差があるわけで、その見た目から感じるものは、見る力を持っていないと、とんでもないものをよしとしてしまうから注意が必要だ。

校長という役目を考えるとき、私はオーケストラの指揮者を連想し、対比する。

指揮者がいいと、オーケストラは初対面からよい演奏をする。

kocho.jpg

ところで、校長になりたいと思っている人、なぜなりたいんだろう?

1.給料が多くなる・・・退職後も年金が多くなる。
2.とにかく出世だ。そして上に立つという優越感だ。威張ってみたい。
3.校長になって、自分の思うところの教育をやってみたい。
4.授業をやらなくてすむ・・・毎日、新聞を呼んでいればよい。

どうなんでしょう?

また、校長になるにはどうしたらいいんでしょうか?

この答えは、また複雑な感じがします。

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2009年06月26日

義務教育は無償である

憲法にうたってある。
勘違いして、給食費までタダと考える人は論外だが、高等学校も事実上義務教育と言えるだろう。

今日、ほとんどの者が高校へ進学するのだが、それでもごくわずかの者が中学校で終える。

このごくわずか、高校へ行けなくするこの制度は何だろうと言いたいが、大半の親は教育費として高校までは考えなければならない。

家計に占める教育費の割合が大きくなったため、国民は豊かになったのかという疑問符がつく。

具体的には、子どもが高校へ行っていると、1年間に90万円弱の出費が必要らしい。
年収の格差が進んでいる今日では、300万円ぐらいの収入では、一家4人のくらしは大変だ。

問題は、国の予算の教育費の割合はどうなのかということだが、
OECD加盟国中最低である。

やはり、日本は恥ずかしい国ではないか?
ウォルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」を思い出す。

私たちは国の予算に、もつと関心を持つべきのように思う。

kyoiku_kohi.gif

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2009年06月26日

やっぱり日本は変だよ

singakukakusa.jpgどうしても、経済大国という名がピンとこない。

このところの不景気によって、教育にも歪みが出ている。
家庭の教育に占める経済負担が大きくなっている。

だから、授業料が払えないという学生が増えているらしい。

授業料は高いのか、安いのか?

昭和40(1965)年頃は、国立大学の一ヶ月の授業料は1,000円だった。
現在は月額40,000円ぐらい。
およそ40年で、40倍になった。

それでは、大卒(4年)の初任給はどうだろう。
同じく、40年前では2万数千円だった。
現在は20数万円。
40年で10倍である。

アルバイトはどうだろう?

40年前では、大学生のアルバイトは家庭教師で一ヶ月5,000円くらいだった。
つまり、授業料の5倍だ。
その倍率でいくと、現在、家庭教師をやったら20万円ということになるが、とてもそんなにはもらえないだろう。

奨学金にしても、最近はもらった奨学金が返せなくて滞納が増えているという。

返せるのに返さないというのは問題外だが、奨学金を返していると、生活が成り立たないという。
そして、返さないと督促がきて、なおも返済できないと法的に処理される。

40年前は国立大の授業料が1,000円に比べ、奨学金は一つの例では月額4,500円だった。

しかも、特別奨学金というのがあって、返済免除というのもあった。

いろいろ調べていくと、どうも国の予算に占める教育費は少ないように思う。

教育立国でなければならない日本だが、教育に対する投資はどうみても低い。

学校の耐震化も進んでおらず、避難場所に指定されているにもかかわらず、地震で耐久性がないでは話にならない。
毎日、地震におびえて授業では、誠にお粗末であり、この国が経済大国とはとても思えない。

一体、お金をどこに使っているのか?
お金が足りないのか?

やはり、この国は変じゃないか?

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posted by edlwiss at 00:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2009年05月19日

休校で繁華街に目立つ中高生

新型インフルエンザの影響で、休校にする学校が多くなったということだが、それで繁華街に中高生がたくさん出かけるようでは、休校にした意味がない。

この理屈は常識ある人にはわかることである。

当然、学校では休校にする意味を生徒たちに話したはずである。

もちろん、それで繁華街に出かける生徒はバカである。

アナウンサーがインタビューしていたら

「家にいてもつまらないから」

とか

「ぼくは、インフルエンザにならないという思いが強いから」

などと言っていた。

本当にバカたちだと思ったが、この問題はそれで終わりではない。

それは、こういう非常事態に、生徒たちがどういう行動をするかが、教育の評価でもあるからだ。

こういうと、最近では「何度も話をしたんだが」などという教師が珍しくなくなった。

ただ話せば教育ができると言うなら、プロの教師はいらない。

機械的に伝達するだけで、教育が事足りるなら、わざわざ学校に行く必要もない。

繁華街に出かけた生徒が多いほど、教育の成果がないと思うべきだろう。

もちろん、外出を止められない親も問題である。

非常時に言うことを聞かせられない大人は、大人としての意味がない。

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2009年05月13日

ステージであがってしまうんですけど

sigotozyutu.jpg
ヴァイオリンを弾いているある人

「ステージであがってしまうんですけど・・・」

と先生に相談していた。

先生は

「私もあがります。でも、あがらなくなったら演奏家をやめようと思うんです」

と答えられた。

あがるということは、それだけ心が高揚しているということで、ステージで何も感じなくなったら、演奏家の生命は終わりなのだという意味である。

教員も同じで、教育実習、新任、研究授業では演奏者とおなじようにあがることだろう。

しかし、意外にこういう時の児童生徒は影響を受けるもので、そこには感動というものがあって、よい結果をもたらすことも多い。

教員も慣れるに従って、そつなく仕事をこなすようになるのだが、慣れっこになった片付け仕事的なやり方で授業をしていると、いくら中身を忘れず網羅したところで、児童生徒によい刺激は伝わらない。

流行らない食堂の入り口をみると、そこには経営者の生活感が漂っていることがある。

入り口付近に子どもの三輪車。
もろもろの生活用品など。
入り口の戸は清掃した雰囲気もない。
ショーウインドウの模型の料理は、色あせて誇りがたまっている。

こういうのを見たとき、客は、なんとなく寂れた、疲れた感じを持つ。
そんなところに入って何か食べようという気にはならない。

店の古いのが悪いと言っているのではない。
古くても、清掃が行き届き、入り口もきれいであれば、店の活気を感じる。
それだけでなく、この店はもう何年も何年も続いてきて、毎日仕事に身を入れているんだなと感じて、きっといい料理を出してくれるに違いないと思うのである。

先生が、くたびれた食堂のようになっていて、児童生徒にやる気を出せと言っても、それは変だ。

先生は何十年経っても、教壇ではよい緊張を持つ続けたいものだ。

「今度の先生、えらい年寄り」

と言って子どもが帰ってきても、何日か過ぎたあとで

「今度の先生どうだ?」

と聞くと

「うん、いい、いい」

と子どもが明るい顔をするときは、間違いなく教育に情熱が入っている。
こういう人は、一朝一夕に身に付かない、良い古さというものを持っている。

こういう先生のクラスの子どもは、不思議と落ち着いている。
先生の年功の良さが子どもに反映しているのだろう。

教育の仕事は他からうらやましく思われる。
だから、やっかみにも似た攻撃が多い。

くたびれがちな先生は、今一度、自分のうらやましがられる仕事の再認識をしてもらいたいものである。

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2008年12月24日

親切すぎるカメラ

カメラと言えば、もっぱらデジタルカメラばかりになってしまった感がある。

このデジタルカメラ、次々と新製品が出るたびに、新機能が付加され写真を撮るというより、写真が撮れると言った方がよくなってきた。

まあ、それはそれで世の中の進歩だろうが、この便利(?)なカメラに懸念を感じるようになってきた。

即、記録として写したいという時はよいのだが、感度やシャッター速度、ピント合わせといったことを自分の意思で行おうとするとき、かえって思うようにならない。

カメラに仕組まれたプログラムで撮影状況が設定されるということは、撮影者の意思に関係なく、誰が撮影しようと同じ結果になってしまうということである。

これは、別な見方からすると、カメラが撮影を強制するということになる。

失敗は少なくなるなるかも知れないが、写真の撮れ具合は撮影者の責任から次第にカメラの責任、つまりメーカーの責任に移っていくことになる。

かくして、写真が上手く撮れるということは、カメラメーカーの責任ということで、メーカーを比較したりしてメーカーの技術に対する批判一辺倒に向かうことになる。

それも時代の流れかも知れないが、私はここで大きな危惧を感じるようになった。

ボタンを押せばよい写真が撮れることが当たり前という環境に慣らされ、その環境が人間を教育するようになる。

そして、その結果、うまくいかないのは自分の責任ではないという感覚が養われることになる。

この感覚が教師に蔓延したら大変なことである。

教育の結果が思わしくないのは、自分の指導力のせいではなく、教育環境や児童生徒の問題であると考えるようになるのではないか?

すでに、そういう空気を感じることはしばしば経験する。

「そんなに上手い方法があるのなら、説明してください。ここに書いてください」

「説明できないということは、そういう方法を知らないのに知っているふりをしているのでしょう」


などの発言に現れている。

これは、そんなにいい写真が撮れるのなら、そのカメラを紹介してくださいと言っているのと同じだ。

そして、もっとよくないのは、うまくいっている時は自分の腕がよいであって、うまくいかないのはカメラのせいと考えたり主張したりすることだ。

教師の中には、かつての生徒が成長して社会で活躍するようになると

「あれは、オレが指導した」

と吹聴する人がいるが、そのかつての生徒が活躍するようになったのは、教師の指導力なのか、生徒自身の持っていた力なのかどちらなのだろう?



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