2013年11月06日

非嫡出子

非嫡出子も嫡出子と同等の権利があると認めた最高裁判決は至極当然な判決である。
この判決を巡って、様々な意見があるが何が重要か順位をつけて考えれば、結論が出る。

日本国の最高法規は憲法であり、人は法の下に平等であるとしている。
ここで言う「人」とは、すべての人を対称としていていかなる環境、門地、出身により区別をしない人のことである。
人として生まれた以上、人としてのいかなる差別もないということである。
これは、両親が婚姻関係にあるないに関わらず、人としてはみな同じ権利を持っているととらえるべきとも言える。
日本は階級社会ではない。
生まれてきた子どもに、生まれながらにして権利が違うのは差別であって、憲法の精神に反する。

よって、相続権も人間として平等でなければならない、と考えるのが妥当である。

一方、反対意見をとなえる人たちの意見は、婚姻という制度がある、家族制度が崩壊するという観点から賛成できないという。

では婚姻制度によらないで子どもを生んだら罪があるのかと問いたい。
そしてそれが罪とするなら、その罰は誰が受けるべきか?
生まれた子どもに負わせることが妥当なのか?

生まれた子どもに責任はないのではないか?

日本の伝統の家族制度が崩壊するのでは、という危惧がわからないのでもないが、それでは家族制度を強制する権利が誰になるのか?

政治家が家族制度が壊れるという危惧を抱いて、婚姻によらない生まれた子どもに責任を負わせようというのはファッショ的な発想ではないか?

それより、家族制度が崩壊しそうと考えるなら、政治の責任はないのか?
誰がどう生きようとするかを決めるのは、政治家が決めることではないだろう。

婚外子の権利を認めないとする意見の人の中には、日本は欧米に比べ婚外子が非常に少ないから、というものがある。
これは論外である。
人の命に関わることに多いも少ないもない。
非常に貧しい考えである。

誰もが幸せな家庭を夢見て、人生を過ごそうと思っているに違いない。
政治家は権力で家族制度を強制するのではなく、家族制度を維持する幸せな家庭作りができるような政治を目指すべきだ。

自民党・西田昌司議員の発言
西田氏は「最高裁は非常識」とし「現行憲法と結びつけると今回の決定になるとすれば、現行憲法が間違っている」と主張。さらに参加者からは「なぜ正妻の子と『めかけさんの子』に違いが出るのか調べて理解してもらわなければならない」「『不貞の子』をどんどん認めていいのか」など、婚外子に対する差別的発言まで噴出した。

おかしいのは西田昌司議員の方だ。
自分の生き方の好みを他人に押し付けようとしているに過ぎない。
憲法が間違っているというなら、憲法改正を発議したらどうか。


リコーダーに関心のある方→コリーナミュージック




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おかしい人の判定項目
posted by edlwiss at 20:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年12月20日

2010年12月10日

異例の判決

検察が起訴した事件で無罪判決が出るのは極めて珍しい。これも、裁判員裁判制度の影響だろうか?
なぜ、珍しいかと言うと、検察が起訴すると有罪率99.9%、つまり限りなく100%有罪だからである。
だから、外国からは「日本は検事が裁判をやっている」と言われている。

このことについては、前にも触れたことがあるので詳しくは論述しないが、なぜこれほど有罪率が高いかという理由について「それは、有罪とわかっている事件しか起訴しないからです」というアホな理由を述べている者がいた。
検事が起訴する段階で有罪がわかっているのなら、裁判制度自体が必要なくなる。

裁判は、裁判官、検事、弁護士で行われるが、裁判官と検事は同じ公務員、弁護士は公務員ではなく自営業者あるいは弁護士事務所に勤めるサラリーマンのようなもので、バランスがとれない。

一度起訴した事件で無罪判決が出ると、検事は「なぜ無罪判決を防げなかったか」と言われ、ペナルティになるから、裁判官は同じ公務員としてどうしても仲間意識が働く。
まあ、出世にも響くというわけである。

また、検事は事件があって、立件し多くの者を有罪にしなければ、成績が上がらないという事情もある。
だから、一度起訴した以上は何があっても有罪にしてしまうという意識が働いている。
無理矢理起訴が問題になった事件は、厚生労働省の村木氏の事件が話題になったところだ。

今回の事件で注目されるところは、裁判官が「現場で被告の指紋が検出されたとしても、証拠としては疑わしい」と述べたことだ。
こんなことは、今まででもわかっていたことだ。
警察や検察の提出する証拠が信用できるとは限らないということは、司法関係者の中では周知のことである。
それは、警察や検察は必要な証拠は作ってしまうとは既成の事実だからだ。
戦前、警察官をやっていた叔父が「警察は犯罪製造株式会社だ」と言っていたことが、実感としてわかってきたということも、以前述べた。

どういうことにしたら、自分たち(の組織)に都合がよいかでことは進む。
学校が、事実はどうあろうとも「いじめはなかった」とすることが都合が良いのと同じだ。

裁判の大原則に「疑わしきは被告人の利益に」という無罪推定の原則があるが、事件を担当した弁護士にしてみれば「そんなことは守られたことはない。疑わしきは有罪です」と怒りをこめて言う。

だから、今回の判決の注目は、この国に何か変化の兆しがあるのだろうか?
内部では何がおこっているのだろうかと注目されるところである。

それにしても、これまで無実の罪で死刑になった人の可能性はないのだろうかと思うと、やりきれない気持ちになる。

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posted by edlwiss at 13:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 司法

2010年12月09日

裁判官のさじ加減

posted by edlwiss at 15:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年11月27日

司法改革


日本の国で司法ほど不透明なところも他にないだろう。
戦後のGHQによる改革で、この分野の改革がほとんどされなかったことを知る人は少ないと思う。

信じられないことだが、明治時代に作られた「大審院」の法律が未だに生きているねのもある。

司法の世界は、戦前状態と言える。
だから、最高裁は国民を「下々の者」と思っているのだろう。
憲法には、公務員は国民の奉仕者であるとか、主権は国民にあるという意識はないのではとさえ思われる。

どなたかの意見によると、ここにいる人たちは民主主義を最も嫌っている人たちということになる。
日独裁判官物語という映画があるが、一度は観ておきたい映画である。

ビデオやDVDが販売されているかどうかはわからない。
この映画をみる機会のない人は市民としての裁判官―記録映画「日独裁判官物語」を読むを読んでみるのもいいだろう。

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posted by edlwiss at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年10月22日

真相は未だ闇の中



証拠なり、根拠なりを示せと言われれば示すべくもないが、事の真相はおそらく、検察のトップも今まで「そうやって出世してきた」ということだろう。

だから、検察の内部をよく知っている、今回の(今は)元検事は徹底抗戦に出ているのだろう。
手の内もよく知っているから、勝算ありと見ているのだろう。
いざとなれば伝家の宝刀をということでもあるかなと考える。

となると、ここは検察が元検察を取調べているということではなく、駆け引きなんだろう。
お互いにどういう利益をもたらすかによって、取引成立ということか?

免職にしても、その後の処遇を考えてやるとか、そうならば、一応の決着がついた後も関係者がどういう地位に着いたかは注目である。

もう古い事件となったが、事件の捜査中に警察のある幹部が温泉で酒盛りをやっていたということが、バレたことがある。

その幹部は退職金を返上して「申し訳なかった」と表向きには謝罪した。
しかし、何のことはない、退職後、退職金と同額の見舞金をもらっていた。
退職金は課税されるが、裏でもらった秘密の見舞金には課税されなかったので、何のことはない、結果的に退職金を返上して得をしたのである。

江川紹子はマスコミに出るたびに、元検察庁何某という人たちが「今回の事件は、彼ら単独のあってはならない特異な事件だった」と盛んに強調する中で「これは、旧来からの検察の体質である」といいかけるところで、時間になるとか、司会が別な方向に話題をふっている。

バンキシャに出てくる河上和雄も、自らは「検察は確固たる証拠と裏付けにもとづいて、正義を実現するために起訴をしているんです」というクセに「問題って、え、彼らだけがやった事件でしょ?」と言っている。

河上さん、その発言に対する「確固たる証拠と裏付け」を示してくださいよと言いたくなる。
全く、一人の人間の中に、これだけ矛盾した発言が同居するとは呆れる。
それが、エリート(?)と言われた元検察だ。

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posted by edlwiss at 11:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年10月17日

相変わらずバランス感覚のないコメント



どうしてこういう人が、コメンテーターをやっているのか不思議に思う。
特に、河上和雄は元検事なのだ。
検事は最もバランス感覚を必要とする仕事だ。

「検事は確かな証拠、裏づけがあって起訴する」という最も基本であること、これがなくては検察の信頼はないということが今回の事件で崩れたわけだ。

特捜はなくていいじゃないか、権限が集中しすぎるという意見に対して、河上和雄は

「じゃあ、(悪いことをした)政治家をのさばらしていいのか?、国民がそう考えているのなら特捜を潰すのもいいでしょう」

なんて言っている。

誰がそんなことを言っているのか?saibannohimitsu.jpg

政治家に限らず、悪いことをした人をのさばらしていいなどと、まともな人が考えるわけがない。

悪いことをした人間をのさばらしていいから、特捜をいらないと言っているのではなく、現在の特捜のあり方に問題はないのか?と言っているわけだ。

悪い人は取り締まって欲しい。しかし、証拠を捏造してまで、自分たちの成績をあげようとする組織はおかしいと言っているのだ。

極論から極論に展開し、核心を曖昧にするなと言いたい。

今回の問題は何かと問われたのに対し

「問題?、(それは)バカげたことをやった人でしょ?その人以外に何があるの?」

と答えている。

これは、今回の事件が証拠改ざんした検事だけの問題であって、他は問題ないと言っているわけだ。

そういうことが、河上和雄さん、あなたにどうしてわかるの?
今、組織的に問題がなかったか調査中でしょう?

なのに、あなたがどうしてそういう結論が出せるの?

簡単に言えば、この人の本音は「つべこべ言わず、オレの言う通りにしろ、今回の問題はやった本人だけの問題だ。それ以外は悪くない」と言っているようなものだ。

この人は、他の事件でも、容疑者が逮捕されると

「やったんだから・・・になるのは当然」

のような言い方をする。
どうして、やったってあなたが知っているの?
あなたは神様か?

あなたが、何でも知っていて、真犯人を知っているのなら、裁判所の必要はないですよ。

いつまで、こういう人をコメンテーターにしておくんでしょうか?

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posted by edlwiss at 21:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年10月16日

検察審査会の危うさ

kensatsusinsa.jpg検察審査会は起訴を検察というプロだけにまかせないで、一般市民の感覚を取り入れようというものである。
これは、検察の暴走を防ぐという意味ではよい制度と言える。

だが、危うさもある。
それは、法律のプロではないだけに、法律上の制約を無視して議決してしまう恐れもあることだ。

事件が報道されると、特にマスコミの取り扱いようによっては、人は感情が先立って、気分だけで犯人にしたててしまう傾向がある。
ひどい場合は「何となくムシの好かないやつ」と言うだけで、犯人に仕立ててしまう。

一つ、事件を想定してみよう。

娘を通り魔に殺された。
やがて、容疑者が逮捕された。
テレビには警察に連行される場面が映る。

この段階で「犯人が捕まった」と思う人が多くないか?

娘の父親がインタビューを受ける。
父親は何と言うか?

「早く、正直に罪を認めて自分の罪の深さを知ってもらいたい」

容疑者は、警察に留置された段階でも報道される。

「容疑者は否認しているもようです」

この段階になると

「なんて、ふてぶてしいやろうだ」
「こんなやつは死刑にしな、あかんな」

ニュースをみるひとには、こんな、感情が起こりやすい。

特に、遺族にいたっては、犯人を殺してやりたいと思っているあまり、容疑者が「やりました」と認めて、早く死刑になることを望んだりする。

しかし、冷静に考えると、真犯人だと言う事実を誰が知っているのかということである。

ニュースを見ているだけの人にはわからない。
もちろん、遺族にもわからない。

ここでは、とにかく、容疑者を犯人として、死刑になってもらいたいということだけだ。
言葉を変えて言えば、犯人は誰でもよい。とにかく、一人死刑にしてきりをつけたいという感情だけだ。

まあ、それで、警察も検察も手柄になるわけだ。
死刑にしてしまえば、死人に口なし。

と、ここまでは警察や検察の捜査の段階だ。

しかし、容疑者が逮捕されたあげく、検察庁での取調べになり、検察が不起訴と決めた場合、検察審査会が登場する場合がある。

検察は容疑者のアリバイがあること、証拠が容疑者と結びつかないことを理由に不起訴にしたということなら、当然、検察としてのこの判断は正しい。

しかし、この容疑者は日頃、こそ泥や万引きを繰り返していると噂され、市民感情の許さない人間だったとしよう。
すると、そのように悪いやつを検察が不起訴としたことに納得ができないとの気持ちを持つ人がある。

やがて、検察審査会が開かれ、その結論が
「あのように、普段から市民に迷惑をかけているようなやつが不起訴というのは妥当でない」
になったりしたら、これは、まさに検察審査会の法律に無知が下した悪い例になってしまう。

ここでは、典型的な仮想の事件での例としたが、問題は「訴因」である。

検察は何を訴因として起訴したいかである。

殺人罪で起訴しようとしているのに、窃盗は関係ない。

いや、たとえ殺人罪で起訴され、被告がナイフで人を刺したとしても、無罪判決が出ることもある。
それは、検察の起訴状が

「被告は、不当な手段で手に入れたピストルにより、被害者を殺害し・・・」

とあり、司法解剖により死因が銃弾によるものと明らかになれば、被告が殺したことにはならないからである。

つまり「訴因」が違うということ。

検察審査会も、訴因が違うことに対して、起訴すべきというような判断をしてはならないという基本的な知識は持っていなければならない。

小沢氏の弁護士も、検察審査会の判断に訴因が違う要素が入っていると言っていた、というようなことをチラッと聞いたような気がする。
もしそうであれば、その説明を国民にわかりやすく説明すべきだろう。

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posted by edlwiss at 11:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年10月15日

起訴されると何が問題なのか?



始めに断っておくが、私は小沢氏そのものに関しては、よくわからないので、よいとか悪いとか言うものではない。

ただ、起訴されたことによって、議員退職すべきとか何か雑音が多いが、起訴されると何か悪いんですか?と言いたい。

河上和雄のように、検察が起訴すればすでに有罪とのプログラミングされたROM頭では話にならない。
彼の弁からすると、これから裁判をやるというのに「やったんだから、処罰されて当然」なんていうことが多い。
検察が起訴した段階で有罪とわかっているなら、裁判の必要はない。

何のために裁判をするかと言うと、刑事事件においては有罪か無罪かを判定するためである。
河上和雄の言い分では
「検察は十分な証拠と、裏付けにより犯罪を犯したという自信のもとに起訴するんであって、法と正義のために、悪を告発するということを国民から付託されている」
ということである。

そんなことはない。検察が嘘の証拠でシナリオを書き、告発するということはバレてしまったし、国民はそんなことをして冤罪をつくることを検察に付託していない。

足利事件で、裁判官が記者から
「なぜ、法廷で検察の嘘が見抜けなかったんですか?」
と質問されると
「法廷で嘘はないですよ。また、そんなことはないし、嘘をいってもらったら困る」
という頓珍漢な返事をしていた。

国民は、肩書きや経歴に騙されてはいけないということを今一度、自覚すべきである。
どんな肩書きや経歴を持つ人間も、それらのものは人がつけた看板であり、どんなに飾っても所詮、普通の庶民と人間としては変わりないということである。

それは、どんなに事実や真実を知っていても、感情、自己の利益に左右されるということである。
だから、検察が起訴すれば何か悪い人なんて先入観を持つべきではない。

でなければ、意図的にある人を陥れようと思ったら、とにかく起訴すればいいということになってしまう。
検察の暴走を防ぐ意味でも、起訴の段階ではまだ有罪ではないという当たり前のことを確認しておく必要がある。

裁判ゲーム―裁判沙汰になるとこんな目にあう! (宝島社文庫)

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posted by edlwiss at 15:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年10月12日

冤罪犠牲者を救え!

enzai.jpg検察の証拠改ざん問題に絡む報道が連日のように行われている。
報道される時間は多いものの、少しも核心には触れない。

元検察の弁護士は、意見を求められても、一般論を述べているに過ぎない。

「検察は、確かな証拠を裏付けに起訴しなければいけないのです」
「絶対にあってはいけないことです」
「二度とこういうことが起こらないように」

こんな言葉を聞くために、我々はニュースを見ているのではない。
江川紹子は、その壁を切りくずすべく

「今回の事件は、たまたま起こったのではなく、以前からの検察の体質が問われているのです」

と発言するが、まともにはこれに応えない。

私が子どもの頃、伯父が時々

「警察は犯罪製造株式会社だ」

と言っていた。

伯父は、戦時中、憲兵をやっていたのだが、子どもの私には何を言っているのかわからなかった。
しかし、大人になってからは、それが何を意味しているのかわかるようになった。

権力を持つと腐敗するという言葉があるが、国家権力を手にすると、それがいかに強大なものかがわかるらしい。

検察にあっては、無実の人を罪に陥れることなど簡単なのである。
その理由の一つに、国民の大半は、おそらく、その権力の強大さが故に、乱用の恐ろしさを感じるので、検察がそれを悪用するとは思っているからだ。

列車の運転手が、漫画を読みながら運転をしていたり、飲酒をしながら運転をしているなどと、思わないと同じなのだ。

そういう意味では、多くの平和な国民は性善説に立っていると言えるのかも知れない。

今、報道される限り、検察はどう落とし前をつけて、今回の事件があたかも青天の霹靂であったかのように国民に認識させることに知恵を凝らしているように思える。
やっていることは、茶番劇だ。

検察のトップも仲間も、今まで、営業としての検察をやってきたのだろう。
つまり、みな同じ穴の狢だから、平気で仲間内では改ざんしたことを漏らしたに違いない。
窃盗団一味が、仲間を窃盗の罪で告発しないのと同じだ。

今回の事件でで、正真正銘の青天の霹靂は、仲間内から改ざんの事実が漏れたことだ。

最も大切なことは「二度とこのようなことが・・・」という言葉を聞かされて、検察が対面を繕うことではなく、検察のシナリオライターによって、冤罪に陥れられたであろう多くの人々を救うことである。

国会も、そういう意味で今回の事件を取り上げるべきだと思うが、一向にその雰囲気が感じられないのは、こういう話題を取り上げたくないのだろうか?

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2010年09月23日

FD改ざんに関する最も大きな疑問

news_utagae.jpg連日、FD改ざんの事件が報道されている。しかし、報道は本当に真相を報道しているのか疑問。
この事件に関する最も大きな疑問は、改ざんがどうしてバレたかということだ。

なぜなら、検事同士の仲間の中で、通常は漏れるはずがないからだ。
証拠の捏造なんて、警察や検察では珍しいことではなく、シナリオ通りに事を運ぶためには、必要な環境は整えてしまうということは、仲間の中では周知のことだからだ。

改ざん知る者は、検察内部の者でしかありえない。なのにバレたということは、反逆者がいるとしか考えられない。
改ざんの容疑がかけられている検事は、エリートと言われていたというから、出世競争の中で誰かが失脚をねらったのかも知れない。

マスコミはどうしても報道せずにはいられない立場に立たされて、一応悪質な事件として報道をしたというポーズをとったに過ぎないかも知れない。
それで、ある程度の日数を経て、みそぎを行ったことにするという、これとてシナリオかも知れない。

テレビではよく、元高検検事というのがキャスター気取りで登場するが、これは一種の天下りにも見える。企業が元税務署のお役人を用心棒として抱えるのと同じだ。

我々は、新聞やテレビで真実を知った気になってはいけない。
ニュースを疑え!を忘れてはならない。

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posted by edlwiss at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2010年09月22日

証拠改ざん

enzainokozu.jpg大阪特捜検事の証拠改ざん容疑がニュースで大々的に取り上げられている。
マスコミがトップニュースとして取り上げていることで、平和に生活している市民としては、かつてなかった大事件としてとらえる人も多いだろう。

しかし、こういうところが、この国の欺瞞だと思うのである。
少しでも司法に関心を持って、弁護士など司法関係者が書いた本を読んだ人にはわかると思うが、まともな弁護士が腐るのは「正義が勝つとは限らない」とか「警察や検察は必要な証拠は作ってしまう」という実態に遭遇した経験をするからだ。

わが国では、裁判員裁判などという制度ができたものの、司法の世界は行政と比べればはるかに闇の部分が多い。
一度でも裁判を経験した人はわかるが、経験すると、この世界はインチキなんだと感じる

ときたま、マスコミで取り上げられるような大事件の場合は、裁判官が世論を気にしてまともな判決を出すこともあるが、そうでない日常の小さな市民生活における裁判では、あらかじめ裁判の結末が決めてあって、裁判というのは実質、儀式になってしまっている場合が多い。

だから、今回の厚生労働省の役人を巻き込む、村木氏の冤罪事件も、これでは、検察はシナリオライターだと発言した人がいる。

私はこのニュースをマスコミが大々的に取り上げることによって、国民を欺いていると感じた。
何をいまさらという感じである。

さも、大変な事件だと取り上げることによって、普段はまともにやっていますよということを暗にほのめかすことになると言ってよい。

アメリカ映画では、司法の闇もあからさまに描いているものがあるが、日本では検事が正義の味方でありさも社会正義のために戦っていると表現しているものが圧倒的である。
裁判もしかり、検察のシナリオを踏襲するだけだから冤罪事件は起こるのである。

だから、外国からは「日本は検事が裁判をやっている」と評されるのである。

なぜ、冤罪が起きるか?
その理由は簡単である。
検察は社会正義のために働いていないからである。

自分たちの出世や利益のみを中心として仕事をしているからである。
わかりやすく言えば、犯人は誰でもよい。真犯人でなくてもよい。
自分の仕事として、多くの人間を起訴し、有罪にしノルマを達成するという目標だからである。

これは一種の営業と言えるかも知れない。

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posted by edlwiss at 10:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2009年12月11日

裁判員制度の懸念

sihokanryo.jpg裁判員制度の目的というのが、今ひとつしっくりこない。

市民の感覚を取り入れたい。

というのだが、それで開かれた裁判になると言うのだろうか?

法律の専門でもない市民が裁けるわけがない。

との意見は、あまりにも観点がずれていて論外だが、開かれた裁判を目指すなら、取り調べての録音・録画になぜ反対するのだろうか?

人は大勢の前では真実を語れないものです。

とは、検察側の意見であるが、こんなのは、録音・録画に反対する意見としては通らない。

逆じゃないのか?

密室で取り調べを受け、どう誘導されるかわからない。
そういう場所では、反対に真実を知ってもらいたいと思うのではないか?

真実だからこそ、みんなに知ってもらいたいのではないか?

録音・録画に反対するのは、結局、調べる側の都合が悪いからではないのか?

裁判員制度が本当に市民のものという目的なら、取り調べから裁判までを極力透明化すべきである。

しかし、裁判員制度が施行されてから、報道されるのは量刑をいかにするかだけである。

裁判で一番大切なのは、量刑ではないだろう?

真実か真実でないかであるはずだ。

真実は当事者しかわからないから、裁く側は証拠によって類推しなければならない。

証拠によって、他に考えようのない段階まで推論を詰めていかなければならない。

我が国の裁判では、本音と建て前が存在する。
その最も大きなものは、建前上は意義を唱えても、唱えなくても判決に不利に作用することはないとされているが、実際は意義を唱えた者には判決が厳しくなる。

ここで、認めておけば、執行猶予をつけてやるとか、実刑でなく罰金で済ませてやるというようなことを、暗にほのめかしている。

建前としては、裁判は公平ということになっているが、言うとおりにしろ、反抗するヤツは許さんぞという姿勢が、本音なのである。

いくら、法律の勉強をして、法律をよく記憶し、言葉が巧であっても、結局は裁く人の人格が大きくものを言う。

それは、法律に、裁判官の自由心証主義というものがあるからだ。

これは、平たく言えば、いくら証拠で固めてAという結論しか考えられないとしても、裁判官の一存でBという結論にしてもよいということなのだ。

悪く言えば、裁判官の気分次第ということである。

だから、弁護士の間では、

トーストの焼け具合が悪いと死刑判決が出やすい

なんてことが言われるのだ。

裁判の迅速化とか言って、有罪か無罪まで決めてしまって、その後、裁判員を集めて、量刑の軽重を判断することに、どれほどの意味があるのだろう。

裁判官は、頭がよくなければいけないだろうが、それに加えて人格者でなければならない。

でないと、裁判官が経歴や周りの環境に左右されて判決に影響を及ぼしかねない。

裁判官は民間人と距離をおいて、なかなか人物像がつかめないので、もっと国民の前に姿を見せるべきと思う。

テレビの日曜討論は、政治家や経済学者が多いが、裁判官もたまには日曜討論に出るべきである。

裁判官の人物像を捉え上で、国民審査を行うべきである。

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posted by edlwiss at 18:19 | Comment(1) | TrackBack(0) | 司法

2009年11月11日

飯塚事件の疑惑

足利事件ではDNA鑑定により、再審で無罪になりそうだ。

飯塚事件はどうなのだ?

DNA鑑定をする前に、早々に死刑が執行されてしまった。












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2009年10月21日

足利事件をめぐる問題点

enzai.jpg
足利事件は、冤罪事件として無罪判決を迎えようとしている。
検察は、早期に無罪判決を確定させて、この件を終了させたいようである。

しかし、この冤罪事件は様々な疑問や問題点を含んでいると思われる。
そういう意味では、間違えて犯人にしまいましただけではすまされない。

日本の裁判は昔から、冤罪を生みやすいと言われてきた。
検事が起訴すると有罪率が99%以上というところに、象徴的に現れている。

わが国は立法、司法、行政と三権分立になっていると言うことだが、この中で司法は国民にとってかなり闇の社会である。

GHQの改革がほとんど及ばなかったところでもある。

最近、裁判員制度が施行され、司法がやや国民に近くなったようにも見えるが、依然として伏魔殿のようである。

検事が起訴すると、有罪率が99%以上である理由として

「それは、犯人しか起訴しないからです」

という呆れた意見を堂々と言う輩がいるのでは話にならない。

それなら、裁判所は必要ないだろう。

国民も賢くならなければならない。

さて、今回、足利事件で浮上した冤罪問題であるが、検事が起訴したらほとんど有罪というのは、裁判官が検事の言い分をそのまま認めてしまうからである。

もっと言うなら、検事と裁判官は同じ公務員として仲間である。

だから、検事が起訴したものを無罪とすると、検事としてはペナルティとなるので、仲間を助けると言う力が働きやすい。

だから、裁判は国民のためというより、司法に携わる裁判所、検事の都合で進められやすいと言える。

これは、本来、公務員は国民の奉仕者でなければならないのだが、これまで行政で問題になってきた官僚制度を始めとして、役所の都合で動いてきた経緯と同じことが、司法でも起こっていると見たほうがよい。

官僚(キャリア)は自分のために、政治を利用して私腹を肥やすことを考え、社保庁は集めた年金原資を自分たちのために使い・・・といった風である。

社保庁には呆れた国民も多いと思うが、呆れるのは社保庁だけかという目で見た方がよいのではないか?

公務員の犯罪は、たまたまバレたのが運が悪いとしか思っていないようだ。

犯罪を行っているのに、処分されていないし、処分されたとしても非常に甘い。

足利事件も、バレたからにはしょうがないといった感じしか伝わってこない。

だから、当時の捜査について、改めて検証しようという態度が感じられない。

バレたからには仕方がないので、国民の手前、謝ったポーズだけとって、中身が暴かれないうちに、早く終了したいと思っているようにとれてしかたがない。

たまたま菅谷さんは運よく、冤罪ということで無罪の道が開かれたのだが、これまでの捜査、裁判はどうだったのかという追及の姿勢が全く出てこないのは、反省しているとも言えないし、諸外国から「日本は検事が裁判をやっている」と皮肉られる事態を改善しようとする様子もない。

今まで有罪判決を受けた人の中には、冤罪はないのか?

司法に「犯人は誰でもよい。片付けることが先決」との感覚で仕事をしていないか?

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2009年08月08日

裁判員裁判の死角

saibaninnoKyokasyo.jpg

裁判員裁判が始まったということで、報道が多くなっている。

マスコミは始まったばかりの裁判員裁判を、緊張の中にも滑り出し好調のように演出したいかのようにも見える。

それは、どんな方法でも満点ということはないからだ。
そういう意味では、裁判員制度における欠点はマスコミでは語られていない。

裁判員裁判の目的は何か?

司法を国民の身近にというが、かえってカモフラージュになりはしないかとの懸念も感じる。

何故かというと、国民の身近にするということは、裁判という独特の世界をわかりやすくするために、それ相当の準備をするということである。

この、それ相当の準備の段階で、裁判の大半が終わってしまっていると言えないかということである。

裁判員裁判の開廷前までに、資料が吟味され、開廷されたときには、疑問の余地のない一定の路線ができてしまっているという恐れはないかと思うのである。

今まで、裁判は時間がかかるというのが一般の認識である。
では、今回の裁判員制度が開始されることで、裁判の期間が短縮されるとはどういうことか?

今まで長くかかった裁判は、かかるべくしてかかったのか、それだけ能率の悪いことをやっていたのか?

かかるべくしてかかったことを、短くして、そこに誤審の余地が生まれないか?
国民参加ということで、開かれた裁判をイメージし、真実が隠されてしまうといったことはないのか?

裁判員の1人が言っていた。
SaibaninSyoutai.jpg
「四日という日数は、死刑のからむような裁判では短くないかと思う」

なんだって?

じゃあ、死刑じゃなければ、簡単でいいのかということになる。

意地悪い言い方をすれば、懲役1年ならたとえ間違ってもいいのかということになる。
そんなことはないはずだ。

殺人事件で、被告が容疑を認めていた場合の危険性。

本人が認めているから、間違いないのだろうか?
いや、身代わりという危険性もある。

裁判官の強い誘導を押し切って、疑問を投げかけることができるか?
それこそ疑問だ。

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posted by edlwiss at 23:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 司法

2009年06月23日

トーストの焼け具合が悪いと死刑判決が出やすい

「トーストの焼け具合が悪いと死刑判決が出やすい」と言っても、近頃はピンとこない人が多くなった。

昔から、この方、人の様変わりを振り返ってみると、次第に思考が、ほんの少しの身の回りのことや、直近のことしか想像してくれないという感じが強くなった。

連想がないというか、ストーリーがないというか、本当に話がしにくくなった。
自動車や電化製品の生産ラインでは、自分の目の前の単純な作業さえ行っておれば、立派な製品ができてしまう。

だから、テレビを作っている工場に勤めているから、テレビに詳しいかというと、そうとは限らないのだ。

いつからこうなってしまったのか、何が原因でこうなってしまったのか即、答えは出てこないが、これが、我々の社会に将来、恐ろしいことが起こることの予知能力が低下してしまうことになりはしないかと、心配である。
自分に火の粉がかからなければ・・・と言った考えも心配である。

ところで、最近、足利事件に関心を寄せているのだが、今日のニュースでは、再審開始が決定されたにもかかわらず、菅谷さんには笑顔なしとなっていた。

それは、菅谷さんが希望していた冤罪(えんざい)防止のため、当時の捜査や鑑定、裁判の検証を求めたが実現しなかった
からだ。

この冤罪事件について、司法は、形だけでなく本当に反省して謝るつもりなら、誤った操作や鑑定、裁判の検証を行うのは当然である。

それを認めないというのは、バレると困ると思われても仕方がない。

一体、国民を何と思っているのかと問いたい。

ここまで考えると「トーストの焼け具合が悪いと死刑判決が出やすい」との言葉が思い浮かんでくるのである。

そもそも、政治家は選挙を気にしている。
国民から選ばれないと、国会に出られないからだ。

ここは国民主権が一応、機能していると言えよう。

ところが、司法の世界にあっては、国民の主権の及ぶところがない。

(衆議院選挙の時の国民審査は、形式だけで、事実上無意味ということは、これまで述べてきた。)

裁判官は国家試験を受けて、合格しその職に就く(もちろん、司法修習制度を受けてからだが)。

その試験の内容も、果たして人を裁く試験として適当かどうかもわからない(というより、疑問符がつく)。

そういう試験を経て、司法修習期間を過ぎて裁判官になるだけだ。
全く、国民からのみそぎを受けていない者が、国家を支配する強大な権力を持つことになる。

そして、その感覚は、国民の奉仕者ではなく、国民は下々の者トーストの焼け具合が悪いと死刑判決が出やすいという感覚では恐ろしい。

何かよくわからない試験さえ通れば、国政を動かす公務員になれるという、今問題視されている官僚制と同じように、司法国家の危険性をはらんでいるのではないか?

一度、そのシステムができあがってしまえば、試験制度を支配し、国家を一部の者だけが支配する中央集権国家ができてしまうのではないか?

簡単に言えば、気に入らないやつは、どんどん死刑にという路線はないか?

saibannohimitsu.jpg
それは、極論だろうという人は、楽観主義ではないか?

なぜなら、人間という生き物の性質上、権力を持つと腐敗するという言葉があるからである。

だから、知事でも市長でも何期も続けると汚職が起こりやすい。
アメリカは大統領を長期にわたって地位につけないようになっている。

司法の世界も、もっと国民の力が及ぶようにし、一部の者が長期にわたって権力を持たないようにすべきではないかと、思うのである。

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posted by edlwiss at 16:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 司法

2009年06月23日

足利事件で終わっていない

バレた以上は仕方がない

今回の足利事件に関心を持って、冤罪事件を調べていくと「バレた以上はしょうがない、謝っておこう」と考えたくなってきます。

それは、まだ、冤罪ではないかと疑われる事件が残っているからです。

1.名張毒ぶどう酒事件(奥西勝)
2.無実のプロボクサー(袴田巌)
3.三崎事件(荒井政男)
4.熊本県の免田町で、農家の女性が殺害(金川一)
5.市原両親殺人事件(佐々木哲也)
6.北海道庁爆破事件(大森勝久)
7.宮代事件(村松誠一郎)

※()内は犯人とされた人。

冤罪事件にみられる共通点

アムネスティ・インターナショナルによると、冤罪事件には共通点があるということです。

1.客観的証拠の決定的な不自然さ
2.自白と客観的証拠の不一致
3.自白の不自然さ
4.証拠の捏造
5.市民的常識(経験則)からの逸脱
6.自白の不存在
7.証拠の不存在
8.動機の不自然さ、不存在

では、なぜ、それまでして冤罪事件を作ってしまうのか?

一言でいえば、捜査当局の名誉のためでしょう。
犯罪摘発率という成績を高めることで、市民から優秀な警察、検察と見られること、ひいては出世ににもつながるのでしょう。

数字を挙げればよいという考え方は、社会保険庁の保険料納付率を見かけ上高くするという、お役所のやり方を思い起こさせます。

成績のためには、犯人は誰でもよいということなのでしょうか?

saibankan.jpg
立法、司法、行政と三権分立を学びましたが、司法の世界が、市民にとっては一番見えにくいと思います。
マスコミが内部を報道しないということもあります。

裁判官の一言で、死刑囚ができてしまうのですが、間違って死刑にしてしまっても、何のペナルティもありません。

国会は、裁判官に対する弾劾裁判権を持っていますが、事実上「ある」と言うだけで、機能しているとは思われません。

足利事件では、最高裁判所の裁判官を服役させろという人もいます。
裁判官は菅谷さんと同じように、17年間刑務所生活をしてみるといいのかも知れません。

全く何の関係もない人が、突然犯人にされてしまうということは、誰にでもその可能性があるということではないでしょうか?

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posted by edlwiss at 10:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 司法

2009年06月18日

冤罪は、足利事件だけなのか?

enzaitukurarelu.jpg街へ出て、何人かの人と話すと、足利事件の衝撃は大きいと感じる。

菅谷さんは、17年もの間収監され、貴重な人生の時間を無駄にした。
関係者がどんなに償っても、戻るものではない。

ところで、この事件に注目していくと、どうしても割り切れないものを感じてすっきりしない。

それは、捜査関係者の対応である。

今回は、精度の高いDNA鑑定により、真犯人ではないという照明がなされたのだが、このようなDNA鑑定の技術がまだ、確立されていなかったら、菅谷さんはどうなったのだろう?

そのまま、冤罪が晴れないままでは、なかっただろうか?

いろいろな情報から判断すると、捜査側が「どうしても、ごまかし通せない」と考えたから、謝ってしまおうと考えたのではないだろうか?

それは、捜査の初期段階で、すでに菅谷さんは、犯人ではあり得ないと捜査側は感じていたと考えられるからである。

つまり、一旦、ターゲットを決めればその人が犯人されてしまうという仕組みになっているのではないか、との疑念が晴れない。

要するに、犯人は誰でもよいのである。

捜査の実績、成績を第一にして、統計値をよくすることに邁進しているのではないか?

この国の機関は、社会保険庁に始まり、どんどんボロが出てきている。

役人は、だれのために仕事をしているのかというと、国民のためにではなく、自分らのために、自分らの成績を名目上、上げることに熱心なのではないか?

足利事件の場合は、たまたま、バレてしまった。
他にも、実は冤罪はあるが、バレない以上は黙っていよう、ということはないか?

誠心誠意尽くして捜査を尽くしたのだが、間違ってしまったというのなら、今回の事件を反省するということは、現在、有罪とされて罪を償っていることになっている人たちの、事件を洗い直す必要があるのではないか?

犯人とは思えないと思っても、犯人にしてしまう。
犯人ではないという証拠を握っているのに、あえて出さないなどの問題点に言及し、総点検をしない以上、本当に反省しているとは言えないと思う。

日本人は熱しやすく冷めやすいと言われる

この事件を機会に、冷めないように、監視していくことを忘れないようにしたいものである。

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posted by edlwiss at 23:48 | Comment(0) | TrackBack(1) | 司法

2009年06月05日

足利事件の波紋

DNA鑑定の結果に基づき、真犯人ではあり得ないという可能性が強くなり、菅家利和さんは釈放された。

これは冤罪事件である。

今回の出来事は異例のことだろうか?

ここで異例と言っているのは、再審前に釈放されたことを言うのではなく、このような間違いが異例のことなのかということである。

こういうことの推定は、裁判を経験した人でなければわからない。

たいていの人は、日本の裁判は公正であり、正義であり、嘘偽りは法廷で暴かれると思っているのではないだろうか?

この際、そういう先入観は一切捨てた方がよいと言うのが私の意見である。

近年、社会保険庁の年金問題に始まり、行政のいい加減さが次々と明らかになってきた。
これは、民社党が参議院で過半数を占め、調査権を発動することができるようになってから明らかになって来たように思う。

断っておくが、私は民社党支持者でもなければ、他のどの党も指示していない。
客観的にものごとを見たいと思っているだけだ。

今回の足利事件については、たまたまこのような警察や司法のミスがあったのだ思う人がいたら、それは危険なことだと思う。

もちろん、たまたまそういうことがあって、今回、我が国の自浄作用にによって明るみになったというなら、その方がいいことなのだが、事実はたまたまバレただけだとしたらどうだろう?

そう言うことだと、他にもっと犠牲者がいる可能性もある。
いや、無実なのだけどすでに処刑されてしまった人もいるかも知れない。

そんな馬鹿なことという人もいるかも知れないが、それはちょっと感覚がちがうのではないかと言いたい。

その理由は、この国、日本においては、統治する側がいつも国民中心にものごとを考えて政治を行っているのかということである。

次々と明るみに出る、行政の不祥事からみると、残念ながら国民の側を向いているとは言えず、すべては自分たちの都合でことが運ばれているということである。

もっと簡単に言えば、犯罪の捜査は国民の治安を考えてというより、自分たちの犯罪捜査の成績を考えてのことということだ。

だから、容疑者を留置すると「早く吐いて楽になれ」などと説得、拷問のようなことを繰り返し、無理やり「やりました」と言わせて書類を作る。

法廷では、裁判官は検察や警察の報告を追認するだけだから、今回のような冤罪は起こりやすい環境が、下地にあるのだ。

裁判官も、一ヶ月に何件の事件を処理できたのかという成績を気にするので、早く処理したいと思っている。

一般市民にしたら、無実の人に罪を着せるとはとても考えられないことであるが、彼らにとっては一般市民をそれほど重く見ていない。

つまり、犯人は誰でも良いのである。
彼らの関心事はいかに早く仕事ができて、成績が上がるかである。

収監した人が殺人犯ではないとしたら、真犯人は他に存在して逃げているということである。

間違って処刑された人がいるということは、真犯人は殺人を犯しても、犯したことにならず生活しているということである。

そんな馬鹿なという前に、ここで我が国の政治というものをあらゆる面から疑ってみた方がよいというのが、私の意見である。

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posted by edlwiss at 23:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | 司法

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